『 天使。 』-第3話


「バカかよ」
「うるせぇ……」


アマツカからド直球に罵られながら、デスクに突っ伏して馬鹿でかい溜息をつく。

仕事を終えて家に帰ってからも、寝る間も惜しんで頭を回転させて考えたものの、どうすれば自殺を止められるか全くもって思いつかなかった。しかも気づいたら外が明るくなっていて、そのまま一睡もせずに出社することになってしまった。ひとまず瑞雲さんはいつも通り出社してきたので、一安心なのだが。


「思いつかなくて当然だ。死にたい側のおまえが、同じ側の人間を助けるなんて出来るわけないんだから」


確かにアマツカの言うことはもっともだ。ぐうの音も出ない。しかしだからといって、仕事中も休憩中もずっとグチグチ同じことを言ってくるのは腹立つ……!

そのまま昼休憩に入り、弁当片手に階段を登る。この暑い時期に屋上へ行く人はいないから、溜まりに溜まった鬱憤をぶつけるには絶好だ。

屋上へ続く扉を開ける。ちょうど吹いてきた風に目を細めた次の瞬間、俺は弁当が落ちるのも気に留めずに駆け出していた。


「瑞雲さん!!」
「えっ?───きゃっ!?」


柵に腰かけ、ぼうっと空を見上げているその背中に向けて呼びかけると、瑞雲さんは驚いたようにこちらを振り向いた。その隙に手を掴んで引き戻せば、拍子によろけて二人して転んでしまった。背中が痛む、が、そんなことどうでもよかった。


「あ、雨野くん? いきなり何し、」
「死なないでください!!」


一息を叫ぶと、瑞雲さんは目を見張った。ズレた眼鏡をそのままに、じっと俺を見つめる。


「そりゃこんなクソ会社で働いてたら死にたくなるし、俺だって今すぐ死にたい! でも瑞雲さんみたいな人は死んじゃダメで、きっと他にもっといい未来があるはずだし、生きてたら今よりずっと幸せになれる方法が見つけられるはずだし、だから……!」


……あれ?
話してる途中なのに、思考回路がふっと止まる。

探さなきゃいけないのに。瑞雲さんが思いとどまってくれるような明確な言葉を探して、見つけて、言わなくちゃいけないのに。さっきからずっと、根拠のないセリフばかりが口をついて出てきてしまっている。そんなこと言われたって何一つ響かないって、俺自身がなにより分かってるはずなのに。


「だから、その、」


瑞雲さんは何も言わない。


「俺、は……」


その沈黙がどんな表情を浮かべているか見れなくて、視線が下がっていく。


「……俺、瑞雲さんには死んでほしくないです……」


結局出てきたのはちっぽけな本音で、吹けば飛ぶようなただのエゴ。こんなので止められるわけがないのに、分かってるのに、これ以上の言葉が出てこない。


「雨野くん……」
「………………」
「えっと、私べつに死なないよ?」
「………………」


……えっ?

顔を上げると、瑞雲さんは眉を八の字にして困ったように俺を見ていた。ぱちくりと一つ瞬きをして見つめ返す俺の背後から、アマツカの馬鹿でかい溜息が聞こえた。

それから少しして、俺は瑞雲さんに全力で土下座をしていた。

どうやら瑞雲さんは、昼休憩の時はいつも屋上で過ごしており、今日みたいに天気のいい日は柵に腰掛けて気分転換をしているらしい。そのことを全く知らなかった俺は、瑞雲さんが飛び降りるのではないかと思って、無理やり引き摺り下ろした……と。


「ほんっっとにすんませんでした…………」
「いいよいいよ。紛らわしいことしてた私も悪いし」


ベンチに座って明るく笑う瑞雲さんは、「ほらお昼食べよ」と隣に座るよう促した。お言葉に甘えて腰を下ろし、弁当の蓋を開ける。


「雨野くん、手作り弁当持ってきてるんだ? あ、もしかして恋人いたりする!?」
「いないすよ。自分で作ってるんです」


「昼ご飯を手作りすることで早起きできるし栄養も摂れるからやれ」って指図してくる天使ならいますけど。たった今、俺の弁当を覗いてニヤついてますけど。

苛立ちと本音を抑えながら答えると、瑞雲さんは「へぇ」とニコニコ笑っていた。アマツカは、瑞雲さんが俺と似てる目をしてたと言っていたが、俺には全く分からない。確かにさっきの彼女からは、目を離せば宙に身を投げていそうな危うさを感じたが───『瑞雲さんは自殺する気だった』という先入観がそう見せただけだったのかもしれない。


「ねぇ雨野くん、今週の日曜空いてる?」
「えっ? あぁはい、空いてますけど……」
「じゃあ、私と一緒に出掛けない?」
「……えっ?」


驚きのあまり、思わず箸を落としてしまう。カランッという軽い音を足元に聞きながら、俺はもう一度「えっ?」と壊れたロボットのように聞き返すしかできなくて。瑞雲さんはにこやかに微笑んだまま、上体を倒して箸を拾い上げると、俺に差し出して言った。


「今週の日曜日、一緒にお出掛けしようよ。雨野くん」


..


雨野空。25歳。ごく普通のサラリーマン。
生まれて初めて、女の人と二人で休日に出掛けることになった。


「なぁアマツカ……目のクマ消す方法って知らないか?」
「知るわけねえだろバカ」


瑞雲さんの誘いを受けて、当然のようにある土曜日の出勤まで死に物狂いで頑張った。ここまでちゃんと頑張ったのは中学の定期テスト以来かもしれない。

そして当日、日曜日の朝。仕事に追われてろくに支度ができなかったせいで、家を出る10分前になっても準備が整っていない。心の準備も整っていない。


「なぁ、この服でいいかな? それともこっちか?」
「知らねえよそんなの。いちいち聞くな俺に」
「しょうがないだろ何も分からないんだから!」
「朝っぱらからキレんな!」


ただの外出ならなんてことない。でも今日は瑞雲さんが一緒だ。もしも適当な格好で行ってドン引きされてしまったら、今後の仕事に支障が出る。アマツカには「そこまではいかないだろ」と言われたが、俺には悲惨な未来しか見えないのだから理解してもらいたい。

そんなこんなでドタバタしつつも無事に支度を終え、時間通りに家を出ることに成功した。ちなみにアマツカは「他の人間といる時は自殺しねえだろ」と言ってついて来なかった。どうやらアマツカは気の利く天使らしい。

待ち合わせ場所に着くと、そこにはすでに瑞雲さんがいた。急ぎ足で駆け寄れば、瑞雲さんはこちらを振り向いてぱっと花が咲くような笑顔を見せた。


「おはよう雨野くん」
「おはようございます、すみません待たせて」
「ううん、私も今来たばかりだよ」


堅苦しいスーツではなく、涼やかな私服に身を包む瑞雲さん。大人らしい清楚な雰囲気だが、ところどころ可愛らしさが散りばめられている姿に、つい肩に変な力が入る。すると瑞雲さんは優しく微笑んで、「行こっか」と歩き始めた。


(なんだかデートみたいだな、)


……なんて邪な感想は胸の奥の奥に閉まって、置いていかれまいと足を動かす。


..


結論から言うと、瑞雲さんとの外出はとても楽しかった。

ショッピングモールでウィンドウショッピングをし、ファミレスで昼食をとり、アイスクリームを買って食べた。「一口交換しよ?」と言われた時は死ぬほど緊張して、一体何味をもらったか全く覚えていないが、とても甘くて美味しかったことは確かだった。

そのあと、瑞雲さんに押されるようにして遊園地に足を運んだ。まさかこの歳になって、ジェットコースターで叫ぶことになるとは思わなかったし、コーヒーカップで死にかけることになるとも思わなかった。さすがに死因が遊園地の遊具になるのは俺も嫌だし、多分、いや絶対アマツカにバカにされるので気合いで生き延びた。

そうこう過ごしていれば、あっという間に夜が更けてしまった。名残惜しく思う俺への配慮か、それとも元よりスケジュールに入っていたのか分からないが、帰りがけに近所でやっているという花火大会を見に行った。到着した時にはもう始まっていて、夜空に咲き乱れる花に目を奪われた。瑞雲さんも目を輝かせていて、その眼鏡に反射するカラフルな光が綺麗だな、なんて柄にもないことを思ってしまった。

それから少し遠回りをしながら帰路を辿って、駅に着いた。遠回りしたおかげでラッシュの時間を避けられたのか、ホームには俺たち以外に人はいなくて、少し特別感を覚えながら、電車を待つために椅子に腰掛けた。


「雨野くん、今日は付き合ってくれてありがとうね」


自販機で買ったペットボトルの水を両手に持ちながら、瑞雲さんは言う。その頬は赤く上気していて、「本当に楽しかった」と唇が音を紡ぐ。「俺も楽しかったです」と返すと、嬉しそうに口角が上がった。本当に、こんなに充実して楽しかった日は今までなかった。

そこでふと思い出したことがあって、缶のアイスコーヒーを飲もうとする手を止めて瑞雲さんを呼ぶ。彼女がこちらを振り向いた拍子に、ぱちっと視線があった。


「あの、なんで俺のこと誘ってくれたんですか?」


瑞雲さんのような人なら、俺じゃなくてもよかったはずだ。仲のいい友達とか、好きな人とか、恋人とかではなく、ただの仕事仲間である俺を選んだ理由が分からなくて不思議で仕方がなかった。

瑞雲さんは小さく口を開いて、何か言おうと息を吸った。しかし声が発せられることはなく、代わりにきゅっと唇を引き結ぶ。流れる沈黙に首をかしげると、瑞雲さんは躊躇うように息を吐いて目を伏せた。


「……私ね、昔から人付き合いが苦手なんだ。だから今まで、誰かとこうやって一日中遊んだことなんてなかったの」
「そうなんすか?」
「そうなの」


意外だ。瑞雲さんは明るくて、友達も沢山いて、巷では『陽キャ』と呼ばれる分類に入る人だと思っていたんだが。人付き合いが苦手なようには全く見えない。


「だからね、せめて一回はこんな風に過ごしてみたかったの。───死ぬ前の、最後の記憶として」
「……え?」


空になったペットボトルを置いて、椅子から立ち上がる瑞雲さん。対して俺は、瑞雲さんの言葉を咀嚼して理解するのに気取られて、座りっぱなしのままその背中を目で追いかけていた。

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