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『食の歴史――人類はこれまで何を食べてきたのか』


ジャック・アタリによる食を通した将来展望。
人間の成立ちからその文化や社会をつくってきた食。しかし、19世紀後半の工業化以降は、人間ではなく資本のためのものになってしまった。将来のわたしたちの持続可能な生活を守るために知っておきたい知識が満載。ハロー通信メンバーとしては、最後の章の基礎知識集は、栄養素の元素での解説もあり、辞典的にも便利です。

勝手にまとめますと、、、

――遊牧して猟をして暮らしていた祖先も、火を使うようになったことで消化に使うエネルギーが節約されて脳の容積が拡大し、言語や神話がうまれた。人口が増えたことで、自分たちで食料をつくり出す必要が出て、農業・牧畜を発達させる集団ができて希少性がうまれた。こうして、徐々に遊牧的な豊穣の社会から、定住による希少性の社会へと移行していった。食の希少性を守るために戦力や権力がうまれた。大きな河川のもとで文明が出来てさらに人口が増えたことで、ダムや灌漑用水路といった大規模な農業設備を活用する帝国がうまれた。帝国の存在感が増すと、食と言語のつながりが明瞭になり、後に宴と呼ばれることになる会食は、主要な社交の場となっていった。
紀元後70年に神殿が破壊されて離散したユダヤ共同体においても、食事のひとときは、社交、安定した人間関係、知識の伝達のための重要な役割を担い続けた。家族は少なくとも安息日の夜だけは食卓に集った。食卓は、子供に教育を施す場であり、共同体のしきたりを決める場であり、旅行者が他の共同体や世界に関するニュースを伝える場であり、子供がさまざまな疑問を投げかける学びの場だった(ユダヤの伝統では、「子供は食卓ではおとなしくする」のではなく、反対に発言するように促された)。

近代になってからは、社会が自由になるにつれて食堂が繁盛した。食堂は民主主義が熟成する表れだった。ラテン語の「安定的に位置付ける、強くする、強固にする」という意味の「staurare」に接頭辞の「re(再び)」を付けると、「restaurer」という動詞になる。その現在分詞が「restaurant:レストラン」となる。18世紀、「レストラン」という言葉は当初、語源の「再び強くする」 という医学的な効能をもつ、栄養価に富むスープを意味した。1765年になると、パリのプーリ通りにあるカフェの店主ブーランジェが、こうしたスープを提供し始め、こうしたスープを提供する場がレストランと呼ばれるようになった。18世紀末になると、ヨーロッパ全土において中産階級でもレストランで貴族や金持ちと似たような食事を味わえるようになった。レストランでは自由に会話ができるので、そこでは多くのアイデアが生まれた。しかし、大衆層は工場で働き始めたため、故郷を離れて暮らす人々が増えたことで食のノマディズムと連帯感の喪失につながり、食事は会話の場ではなくなった。増え続ける消費者のために、農産物だけでなく食品も工業生産されるようになり、地主を超えて、本当の権力者は工業資本を握る人物になった。

世界経済の中心地になりつつあったアメリカは、大衆層が賃金の大半を食費以外の消費財に費やすように仕向けるために、食の工業化を進めながら食品のコスト削減に励んだ。その結果、食事および食事中の会話の内容は根本的に変化した。このようにして、会話によって構築される社会そのものが一変した。アメリカの資本主義は、「アメリカには新鮮で豊富な食品があるが、それらは健康によくない。より質素で人工的な食品が必要だ」「食卓で無駄な時間をすごすべきではない」と大衆を説得。独りで素早く食べるほうが効率的だとした。これにより、家族の絆や、文化的、美食的な連帯感は消え失せた。個人の家から食堂が姿を消し、代わりに「リビングルーム」が登場。アメリカ人の生産性は向上し、アメリカ経済は急成長。食のイノベーションで食品が安くなったことで、自動車の価格も下がった。自動車は、食費を削減できたおかげで中産階級の購入意欲がかき立てられた最初の消費財だった。世界の食品業界は、1945年以降、経済、政治、イデオロギーの面で巨大な勢力になった。2017年、食品業界全体の売上高は4兆9000億ユーロであり、自動車業界の2倍以上に相当。規制当局は、食品業界からの政治圧力にさらされ、食品会社が自社製品のパッケージで健康増進効果を謳うことを禁止しなかった。調査によると、13歳から19歳までのアメリカの若者は、年間平均およそ1000時間、食のことを考えているという(SNSでも食の投稿が多い)。しかし、若者にとって食はむしろ功利的な行為でしかない。アメリカの若者の4人に1人以上は、食事の質を落としてでも、衣服(31%) や携帯電話(25%) への出費を優先する。これは世界的な傾向となっている。

この先来る超監視社会では、より良いサービスを享受するためには個人の食習慣のデータ管理は必須になるだろう。その結果、わたしたちは死という恐怖に怯えて人工物を食らうロボットのような存在になるかもしれない。仕事や決まった娯楽のときを除いて話し相手をもたず、会話の最も素晴らしい話題である食も、議論の最良の場である会食の機会も失うかもしれない。データを提供することで得られる長寿の対価として、話す、聞く、意見を交わす、感情を抱く、愛する、楽しむ、叫ぶ、苦しむ、背くなどの、本当に生きるという行為を断念しなければならない。


――私たちは、いかに先祖の時代から長期間にわたって、食を軸に生活をしてきたか。いかに短期間で、その生活が資本主義によって変えられてきたか、がよく分かります。忙しい現代に生きる私たちにとってはもちろん、何よりも目の前にある現実への対処が最優先になってしまいますが、より長い視点を知れば大局観をもった行動ができそうですね。

コロナ渦によって、必要なものと不要なものの線引きが急激に行われたと思います。今まで当たり前だと思っていた消費などの行動を見直すよい機会ですし、なにより、最も大事な家族との理解を深め成長を高めるよい機会ともなっています。先祖の時代からやってきたように、食の話題、食の時間を通して、家族での会話も充実させたいと思います。


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