見出し画像

労働判例を読む#468

【酔心開発事件】(東京地判R4.4.12労判1276.54)

※ 司法試験考査委員(労働法)

 この事案は、飲食店の調理担当者・料理長として勤務していた原告Xが、会社Y退職後、未払いの時間外手当(及びこれに対する付加金)の支払いと、不当に解雇されたことなどを理由とする損害賠償を、Yに対して請求した事案です。
 裁判所は、時間外手当と付加金について、請求の一部を認めてその支払いをYに命じましたが、損害賠償については請求を否定しました。

1.時間外手当
 ここでは、労働時間の認定と、固定残業代の合意の有無が問題になります。
 飲食店の店長や料理長など、現場責任者の勤務時間が論点になる裁判例をときどき見かけますが、それらの事案と同様、実態に照らして労働時間を判断しています。
 もちろん、具体的な評価は事案に応じて異なりますので、ここで示された具体的な評価は、あくまでも他の事案にとっての参考でしかありませんが、例えば以下の点が特徴的です。

① 始業時間
 裁判所は、Xが始業1時間前の10時半から業務を開始していた、と認定しました。
 Xは、DとXの打刻時間である10時から業務を開始していた、と主張していますが、裁判所は、タイムカードの打刻時間が実態を反映していないとしたうえで、10時から業務開始していたのはDだけだった、と認定しています。
 タイムカードの打刻時間の信用性が否定される場合、一般的に見て、従業員にとって有利に認定されることが多いように思われますが、始業時間に関して言えば、ここでは始業時間が30分短く認定されており、従業員にとって不利に認定されています。

② 終業時間
 裁判所は、ラストオーダーの10分後まで業務をしていた、と認定しました。
 飲食店の現場責任者の終業時間について、一般的に見ると、店舗の最終退出者として確認し、施錠することから、店舗の施錠や最終退出時間が終業時間とされた裁判例を多く見かけますが、この事案では、料理長は最後の確認を担当していなかったのでしょう。ラストオーダーの10分後が終業時間と認定されるため、どのような事実や証拠が提出されたのか分かりませんが、現場責任者だからと言って画一的に判断するのではなく、やはりここでも実態に即して判断されるのです。

③ 休憩時間
 裁判所は、昼の営業時間と夜の営業時間の間に3時間ある平日については2時間半、連続営業となっている土曜・祝日については30分、休憩時間を認定しました。
 ここでも毎日の休憩時間を詳細に検討するのではなく、平均的な勤務状況から休憩時間を認定しています。すなわち、平日は平均30分程度は閉店時間中も業務があった、逆に、土曜・祝日は交代で30分は休憩をとっていた、という認定です。平均的な勤務状況から平均的な休憩時間を認定する手法は、近時、多くの裁判例で見かけるものです。

2.固定残業代
 固定残業代の合意があったかどうかは、残業代が発生するかどうか、という点だけでなく、基礎賃金の金額(さらに、これに基づいて計算される1時間当たりの賃金単価)の計算に影響を与えます。
 すなわち、Yは、月給のうち21万円が基本給、5万5千円が固定残業代と主張しており、これによれば基礎賃金は21万円となり、これを月平均所定労働時間で割った金額が賃金単価となります。
 これに対して裁判所は、固定残業代の合意がなかったのだから、26万5千円全額が基礎賃金となり、これをベースに賃金単価が計算されます。
 このように、固定残業代の合意が否定されることによって、残業時間が発生してしまうだけでなく、残業代の計算の基礎となる賃金単価も高くなってしまうため、固定残業代の合意が否定された場合、会社は二重の負担を負うことになります。さらに、本事案では未払残業代と同額(但し、時効消滅していない部分のみ)の付加金の支払いも命じられましたから、未払賃金が裁判で争われると、会社は30の負担を負うことになるのです。
 これだけ固定残業代の合意の有無が重要な論点となるのですが、Yは、Xの入社当初、固定残業代に相当する金額がいくらなのかすら示していませんでした。固定残業代の合意が認められるために、具体的にどのような事情が備わるべきかについて、裁判例によって要求される事情にばらつきがあるため、未だ、一般論として「これだ」というべきルールが定まっていないように思われますが、最低限共通する要素は、固定残業代に相当する金額が示され、従業員もそのことを理解していた、という点です。
 本判決は、固定残業代の合意が認められるために必要な条件を具体的に示していませんが、最低限の、固定残業代に相当する金額すら示されていないことを指摘し、固定残業代の合意を否定しました。
 固定残業代に相当する金額が示されればそれで十分なのかどうか、この判決からは判断できませんから、その点では参考にしにくいのですが、固定残業代の合意が否定された場合の不利益が詳細に計算されて示されており、その部分は非常に教訓になる点です。

3.退職の合意
 本事案で、さらに注目されるのは、退職の合意が否定され、YがXを違法に解雇した、と認定されたにもかかわらず、この点に関するXの損害賠償請求が否定された点です。
 まず、退職の合意が否定された点ですが、Yは、Xがレビー小体型認知症に罹患していて、就労意思がないことが明らかだから、解雇扱いではなく自主退職扱いにしてあげた、という温情的な理由を主張しています。このことから、休職の案内をせずに、いきなり離職票を交付し、退職を促したのです。
 けれども裁判所は、X本人は退職しない意思を明確に示しており、Yの対応は、違法な解雇であると評価しました。
 解雇が違法だと、例えば解雇が無効になったり、それを前提に未払賃料の請求が認められたり、さらに損害賠償請求が認められたりするのが一般的でしょう。
 しかしこの判決は、「レビー小体型認知症の症状が既に相当程度進行しており、」「就労が困難な状態にあった」、実際、Xは退職を受け入れている、という理由で、Xに「経済的損害」がない、として、損害賠償の請求を否定しました。
 仮にXが、雇用契約関係の確認を求め、賃金の支払を求めた場合にはどうなったでしょうか。
 業務上の理由ではなく罹患した疾患であり、解雇制限の対象になりません。しかし、労契法16条の合理性が必要です。そうすると、Xに就労意思がなかった、ということが「合理性」に該当する、ということになるでしょうか。あるいは、契約上の債務(働く義務)の履行が不能である、したがって、形式的には解雇ということになっているが、実態は履行不能を理由として契約の効力が否定される、ということになるでしょうか。
 いずれにしろ、違法な解雇とされながら、従業員の請求が否定された事例は、裁判例を見る限り見かけたことがなく、ここで示された判断と同じような判断がどのような場合にされるのか、今後、注目される点です。

4.実務上のポイント
 Xは、長時間労働を強いられ、健康診断も受けさせてもらえず、使い捨てのように扱われたために、持病のレビー小体型認知症が悪化した、とも主張していますが、これらも裁判所は否定しました。
 精神障害の業務起因性(仕事が原因かどうか、という因果関係の問題)について、厚労省が認定基準を定めており、裁判所も原則としてこの認定基準に準拠して因果関係の有無を判断します。その中で、新たに精神障害を発症させた場合に比較して、既に有する精神障害を悪化させた場合には、単なる強度のストレスがあるだけでは足りず、「特別な出来事」が必要である、と定められています。この「特別な出来事」として、自分自身が死ぬかもしれないような経験をしたことが典型的な例として示されており、従業員側にとって、非常にハードルが高くなっています。
 本判決は、特に具体的な判断枠組みを示さず、したがって「特別な出来事」を判断枠組みにしていると明言せずに、Xのレビー小体型認知症の発生機序等が不明であることを理由に、相当因果関係を否定しています。「特別な出来事」という高いハードルを示すまでもなく、因果関係が認められない、という趣旨なのか、そもそも「特別な出来事」という判断枠組みを採用しないのか、趣旨は明確でありませんが、「発生機序等」に言及していることから、従業員側が医学的な証明もしなければいけない、という構造を前提にしているように思われます。
 いずれにしろ、医学的に原因が解明されていない疾病などの場合、従業員側が損害賠償などを請求することが非常に困難になるのですが、現在の裁判制度では止むを得ないことでしょうか。

※ JILA・社労士の研究会(東京、大阪)で、毎月1回、労働判例を読み込んでいます。

※ この連載が、書籍になりました!しかも、『労働判例』の出版元から!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?