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労働判例を読む#506

※ 司法試験考査委員(労働法)

【アイ・ディ・エイチ事件】(東京地判R4.11.16労判1287.52)

 この事案は、在宅勤務をしていた従業員Xが、他の従業員とのチャットで会社Yの社長の悪口を書き込んだことが引き金となって、それをモニターしていた社長から懲戒処分を受け(但し、Xの反論を受けて撤回されました)、(在宅ではなく)出社命令を受け、減給処分を受け、解雇された事案です。訴訟では、Xに対して給与が支払われるべきだったのか、逆にXは給与を返還すべきだったのか、が議論されましたが、裁判所は、給与の返還を求めるYの主張を否定し、給与の支払いを求めるXの主張の一部を認めました。

1.民法536条2項
 Xは、出社命令に従うことができない(子育てがあり、片道3時間かけて通勤できない)ことから、出社命令に従っていませんでしたが、それでも給与の支払いを求めました。出社命令に従わなかったのだから給与が支払われないようにも思われますが、裁判所は、Xの勤務条件から検討し、出社命令が無効であると評価し、給与の支払いを命じました。
 すなわち、子育てと両立する仕事を探していたXに対し、社長自身、必要なときには出社もあるが基本は在宅勤務であると認めていて、実際に入社以降約10か月間、在宅勤務だったこと、を主な理由に、在宅勤務が基本であって、出社命令は必要がある場合に限られる、と認定しました。勤務場所に関し、XY間に特約があった、ということでしょう。このように、①原則ルールとして、在宅勤務、②例外ルールとして、必要性があることを条件に、出社命令可能、というルールが示されました。
 そのうえで、必要性がない、と判断しましたが、その前提となる事実として、以下のような事実を指摘しています。
❶ 業務上無用な会話をしていたが、長時間でなく、出社勤務でも雑談ぐらいはするだろうから、出社させて管理する必要は無い。
❷ デザイン業務にはパソコンを操作しない場合もあり、パソコンを操作していない時間が多少あったとしても、出社させて管理する必要は無い。
❸ 社長は、Xとメール上で非難しあった5時間後に出社命令を出しており、出社させる必要は無い。
 必要性を否定すべき事実が少ないようにも見えますが、出社命令が例外と位置付けられていることから、出社の必要性を裏付ける事実は、Yの側からより多く、より積極的に示すべきであり、Y側から十分な事実が示されなかった結果、事実が少なくなってしまった、と言えそうです。
 そのうえで、出社命令は効力がなく、Xが出社しなかったのはYの「責めに帰すべき事由」(民法536条2項)であり、給与請求権は消滅しない(Xが給与を請求できる)、という結論に至ったのです。
 通常の人事上の措置であれば、ここまで厳格な「必要性」がなくても、会社が命じることが可能でしょう。むしろ、人事権の行使は①‘原則として、会社の裁量であり、②’例外として、それが濫用に該当する場合には無効、というルールになりますから、Yが出社命令の合理性を裏付ける事実を事前に確認しておく、という意識が全く無かったのかもしれません。原則ルールと例外ルールが逆に設定されている点が、結論に大きな影響を与えているように思われるのです。

2.労働時間
 ここは、XとY、いずれもパソコンの稼働状況と違う労働時間を主張しています。すなわち、Xは、より長時間働いていた、と主張し、Yは、より短時間働いていた、と主張しています。
 これに対して裁判所は、いずれの主張も十分証明されていない、として否定しました。そのうえで、この点に関する両者の請求を否定しています。例えば、デザイン業務はパソコンを立ち上げなくても行うことができるから、パソコンを使っていない時間を労働時間から控除することを否定しつつ、Xが主張する労働時間程実際に業務を行っていたことが証明されていないとして、Xの主張も否定したのです。
 なお、固定残業代のような規定もあり、裁判所は、この規定の効力も論点として指摘していますが、結局、この規定の効力について何の判断も示さずに、Xの残業代請求やYの給与返還請求を否定しました。固定残業代の規定の有効性以前の問題、と整理されたのです。

3.減給
 さらに、減給の有効性も問題になりました。
 この論点も、ルールの構造は上記1と同様です。すなわち、就業規則の規定から、減給が認められることが例外であり、そのための条件として用いられている「懲戒処分を受けた」かどうか、「著しく技能が低い」又は「勤務成績ならびに素行不良」かどうか、が検討されています。
 このうち前者は、上記のとおり社長自身が懲戒処分を撤回した、という認定なので、該当しないことが簡単に認定されています。
 問題は後者ですが、ここまで指摘されてきた事実が繰り返し指摘されています。すなわち、民法536条2項のYの「責めに帰すべき事由」に該当しないこと(上記1)、Xが労働時間の虚偽報告したとは言えない事(上記2)、業務に関係のないやり取りも「素行不良」というほどではないこと(上記1)、が理由として指摘されています。
 ここでも、Yの側が減給の合理性の事情を十分指摘できなかったのです。

4.実務上のポイント
 人事権の行使は、会社の裁量とされる場合が比較的多くあります。その場合には、会社の人事権の行使が濫用に該当するのか、という問題になり、濫用に該当するかどうかを従業員の側が証明しなければなりません。
 けれども、従業員との合意内容(上記1)や就業規則の規定(上記3)により、条件が満たされた場合にしか会社の人事権行使が認められない場合もあり、この場合には、条件を満たしたことを会社の側が証明しなければなりません。
 しかも、合意の仕方や就業規則の記載方法によって、この原則ルールと例外ルールを簡単にひっくり返すことができるかというと、簡単ではありません。例えば減給は、従業員の生活に重大な影響を与える問題であり、就業規則の規定方法だけによって、会社の裁量で自由に減給できるとは認められない可能性が高いように思われます。
 人事権は会社に固有のものであって、その裁量によって自由に行使できる、と簡単に決めつけないようにしましょう。

※ JILA・社労士の研究会(東京、大阪)で、毎月1回、労働判例を読み込んでいます。

※ この連載が、書籍になりました!しかも、『労働判例』の出版元から!


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