現代アートについて、ほとんど無知な非アート人の自分が感じること

私はアート、特に現代アートについてはほとんど無知です。ですが、いくつか本を読んだり、アートについての作品を見たりして感じることを素人の目線で書いてみたいと思います。

私が一番に感じることは「説明不足だ!!!」ということです。
より詳しく私の考えを説明すると
1一般人も対象に含まれる
2現代アートが「きれいだね~」と、視覚的に楽しむだけのものではない
としたとき
3現代アートは説明不足であり
4現代アートのメッセージ性は「無知な私たち」には伝わらないよ~
ということです。

まず、「1伝える対象が一般人である」についてです。現代アートは美術館などに飾られ、私も自由に観覧できるようにされていますから、これを私は、「現代アートが何かを伝える対象には、非アート界隈の私たちも含まれている」と解釈します。
そのうえで、「2現代アートは視覚的に楽しむだけのものではない」についてです。現代のアートは「なんかきれい」「不思議な感じだね」で終わらず、コンセプト・思想の表現が重視されていると聞きました。しかし、そのコンセプトが「34説明不足でありメッセージ性が無知な一般人に理解できない」というのが、私が思うことです。
「3説明不足である」、これはどういうことか。
それは、現代アート作品の情報量は、コンセプトを説明するのに不十分に見えるということです。
私たち一般人はアートの文脈を詳しく知りません。そのため、並べられただけの時計や数色の絵の具で描かれた四角形を見ても、一発で芸術家の言わんとすることを理解することができません。
そのうえで、現代アートはもっと「説明」をするべきではないのかと思います。
コンセプトや作者の思想を伝えるという目的において、今の形では本や発話に劣るように感じます。というのも、思想を述べ、メッセージを伝えるというのは、例えば哲学者や小説家も行うことです。彼らは自身の考えを伝える為に数百数千ページの本、論文を執筆します。
たとえばニーチェという人(詳しくないので偉そうなことは言うべきではないのですが)は「神は死んだ」「怪物と闘うときは、自らも怪物にならぬよう気をつけなさい」みたいな言葉だけを残し、評価されたわけではありません。何冊も本を書き、その膨大なメッセージがようやく彼の思想の核を社会に伝え、「すごい哲学者」と言われているのだと思います。
小説家もそうで、
対して、現代アーティストは、例えるならこの数行で莫大な評価を得ているように、私は見えてしまうのです。もちろん、偉大な思想家も、その本を読んだだけですべてを理解できる人はまれだと思います。ある程度腑に落とすためには解説やその人の歩んだ人生等の周辺情報が要求されます。だから、アートも美術館ですべてを理解できる形にするべきだとは思いません。
しかし、思想家・学者にとっての本は、アーティストにとってのアートではないのでしょうか。思想家が本に思想の大部分を落とし込み伝わる形にするべきなように、アーティストもアートが展示された段階で、思想が伝わるようにするべきではないのでしょうか。
ともすれば、論文が説明不足では評価されないように、アートも説明不足で評価されるべきではないように感じます。
本当に偉そうだと思いますが、現代アートは努力不足だと感じてしまうのです。コンセプト・思想を伝えるという元来文字や言葉が担ってきた領域に足を踏み入れているのに、「アート」という概念の崇高さ、パワーで幻惑して説明する努力を放棄し、うやむやにしているように思えてしまいます。
思想を表現するにはすでに言葉という形がある。もちろん、例えばデュシャンがやったような過去のアートに対する批判のように、アートというフィールドでしか表現できないものはあるのでしょう。デュシャンが便器を美術館に置く代わりに、何万字もの論文を一生懸命したためていたら、かえってメッセージが伝わらなかったと思います。だから、すべての「思想の表現をするアート」にアートでやる必要ある?とは思いません。(これは本当に多くのアーティストの方々が、私の何千倍もの時間をかけ考えていることだと思います。失礼な物言いになって申し訳ありません。)
しかし、思想を表現するうえで、アートは「色・形・サイズ・場所・音楽・・・・」といった手法を用いることができます。これは本や発話にはできないことです。ですから、学者が思想をどうにか伝えようと言葉を選び、そして伝わらない場合は評価されないように、小説家が感情に訴えかけようと小説を書いても表現不足ならば評価されないように、アーティストもメッセージを表現するならば、もっと情報量を増やして伝える努力をし、伝わらなければ評価されるべきではないのではないのか、というのが私の疑問です。なぜアートだけは思いつけば数十分、数時間でできてしまうようなレベルの表現の情報量で「メッセージを伝えている」ことになるのでしょうか。あまりにも情報の受け手にゆだねられすぎてはいないのでしょうか。

ここまで言っておいてずるいかも知れませんが、私も心を揺さぶられる現代アート作品もたくさんあります。例えばフェリックス・ゴンザレス=トレスの、自身と亡くなったパートナーの体重分の飴を展示した作品は、鑑賞者の参加の方法も含めてかっこいいなと思いました。
ですから、表現方法の選択によって文字以外の手段でメッセージを伝えるアートの取り組みはうまくいけば正しいのだと思います。ですが、私個人として、凄いとされている作品を実際に現場で見ても、何を言いたいのか全く分からないことが多くありました。美術館という場所で、一般客へ展示する=その作者の思想の前提知識がないひとに伝えることを選ぶ以上、作品の情報量を増やしたり、あるいはキャプションで説明を入れたりして、もっと工夫する必要があるのではないのでしょうか。というか、そうして欲しいです。私ももっと「理解の土俵」に立たせてほしいです。私たちは無知ですから、バカでかい空間に金属製のタマを一個展示されても、せいぜい「なんか教会みたいだな」としか思えないんです。それって入道雲をみて「ウサギみたいだネ」というのと変わりません。空の雲と違い、その色形にした明確な意図が背後存在する以上、それを理解させてほしいんです。そのうえで自分の理解力が及ばなかったならばこっちの責任ですから。
これが今まで私がずっと思ってきたことです。

ここに書いたようなことはおそらくアートの批判として擦り切れるほど言われ、論じられてきたと思います。すでに世の中にはこの疑問に対する答えも用意されているのだとは思いますので、アートに詳しい方は鼻でも掻きながら笑い飛ばしてください。

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