ブルーピリオド「ノーマークス編」の感想

ブルーピリオド 51筆目〜 の感想
51筆目〜 大学教授の講評が心に響かなくなった主人公矢口八虎が、同級生に誘われ行った反権威「ノーマークス」で過ごす話です。大学と真逆の集団の中で登場する新鮮な価値観に、また考えさせられます。

「よく喋る」について

ノーマークスの集団はよく話す。内容は基本ネガティブ、現代社会のアートについて、その取り扱われ方を批判する話が多い。
批判、否定的な感想は肯定的な感想同様価値がある。しかし、リスクを備えたものだと私は思う。肯定と否定は鏡合わせの関係ではない。肯定が持たない致命的なリスクを否定は備え、いつの間にか深い井戸に落ちている。
ノーマークスのメンバーは例えば「テレビ番組のアート紹介」を見る。内容はマッチ棒を使って超リアルな猫を再現したものだ。メンバーは「一般人はアートをリアルかどうかでしか評価できない」「コンセプトがない制作者もだめだ」と、一見批評に見えて、その裏に攻撃性を含んだ言葉で語り合う。
あるいは絵の講評を飛ばされた、という主人公の話に「金もらってんだからちゃんとやれ」と批判する。

代表の「不二さん」のみ、言葉を選ぶ労力をかけた上で、本質を捉える発言をするのも面白い。(カリスマ性ある代表、という人物像を的確に表す作者の山口先生の手腕が光るシーンだと思う)

フジさんの言葉は多様なバックグラウンドがある。歴史から学び、情報を咀嚼した末の言葉だ。
対照的にメンバーの言葉はフジさんの言葉を入力し、それを加工して出力しているように見える。
 メンバーにとってフジさんが「正解」であり、だから攻撃性を添加することを厭わない。源泉が絶対的に正しい神であるから、自分の発する言葉に疑いを抱かない。
そして、「よく喋る」ことは気持ちがいい。絶対的正義、信念を元に多数派をズバズバ斬るばあいはなおさらだ。一種のトランス状態に近い。
だか、それを続るほど人は自分自身の言葉に毒されていく。攻撃が伴う脆弱性から身を守るために毒で弱さから身を守る砦を築き続ける。そして砦に引き篭もり、心理的安全圏から世間に更なる攻撃を続けるのだ。しかし、その攻撃対象は本来攻撃すべき敵の本拠地(権威主義のあり方)ではなく、そこから出撃された弱い兵士(テレビを見る小市民)にすぎない。

「フジキリオ」が大嫌いな犬飼教授

フジさんと犬飼教授は鏡写しの存在だ。フジさんは反権威主義、犬飼教授は美大や王道に正しさを見出し、ビエンナーレにも出品する権威主義を象徴だ。
しかし、どちらも互いを悪と否定しない。むしろ論理的整合性を認めた上で、自身の立場を支持しているのだ。
フジさんは王道の権威主義、美術の歴史や思想を極めて深く学んでいる。そして、その上で反権威という思想を標榜している。犬飼教授も言葉こそきついものの、相手の背後にある思想を深く理解した上で王道を選択している。おそらく教授も反権威について、一切否定的な言葉を使わず、その出自や根幹の思想を深く説明できるに違いない。

フジキリオの残酷さ

フジキリオは残酷性を持ち合わせている。能動的な残酷さではない。自身の能力、カリスマ性がもたらす影響に当てられた人々に対して傍観者的視点をとるという意味での残酷さだ。
これはフジキリオ自身が責められるべき事象ではない。周囲が勝手に影響され(その多くは悪い影響である)勝手に落ち込んだり、堕ちていっているだけだ。強いていうなら精神的強者ゆえの「ノブレスオブリージュ」は「果たした方が良い」かもしれないが、それはあくまで付加的行動であり、義務では全くない。

例えば彼女はよく「かわいい」と言う。虫を見てもかわいいと言い、どんな人を見てもかわいいと言う。これは主人公に「判断の保留ですよね」と評価されている。
しかし、ここでフジキリオが返す言葉は「いけませんか?」である。
もちろん、ここに嫌味や悪意は一切含まれていない。だからこそ残酷なのである。フジキリオのようにカリスマ性を備えた精神的強者から「かわいい」と言われた日には、弱者ほど当てられてしまう。受けてもまた精神的強者であれば、「かわいい」と言う評価を受け取るか否か、取捨選択を行うことができる(これは例えば「お前、変だよ」と言われたとき、弱者はそのまま受け取って落ち込み、強者はその言葉が正しいかどうか、受け取るべきかどうか主体的に独善的に判断できるのと同じ構造だと思う)。
あるいは自身の集団ノーマークスが、過激化する一部のシンパに寄り宗教的要素を帯びてきても、フジキリオはそれに積極介入しない。無反応ではなく心配する描写もあるが、少なくともその原因であるシンパたちを啓蒙し、直接的な改善を行うことはない。あくまで自身は自身として存在しており、そのカリスマ性に当てられ言葉を鵜呑みにして悪影響を受けるのは周りが悪いのだ、と言わんばかりだ。

そして、これはフジキリオ自身は歴史を学び、言葉を選び、あくまで個人の思想に収まる範疇のおとなしい発言しかしていないのだから当然のことだ。カリスマ性はシンパを洗脳するため意図して付与したものではない。しかし、だからこそ「自分に非はない」から「周りがどうなろうと傍観する」という視線は残酷なものだ。少なくともどちらかといえばシンパに共感できてしまう自分には残酷に思える。


まとまりはないですが、考えたことです。
そして、自身の頭の中でここまで生臭いほど深く人間たちを描ける山口先生は本当に凄いです。

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