比べてしまう育児のその先に

娘は学年で100人程度、園全体で言えば約300人在籍のマンモス園に通園している。人数が多いと、ますます秀でた子が目立ち、その個人差に驚くこともたくさんあった。正直な話、年少や年中では、(私がすれば)あまりにも出来のいい子たちと比べて、発達がゆるやかな娘はこの先、大丈夫だろうかと不安になることも多かったものだ。

例えば4月生まれで、足がとても速くて、リレーのアンカーを務め、クラスの人気者の男の子。運動も字の読み書きもバッチリな顔もかわいい女の子。人の些細な変化に気づき、周りを気遣うことができ、とても優しい子。男の子にしても、女の子にしても、本当に同じ年なのだろうかと愕然とした。4歳でこんなにも成長の差があって、あの子たちに娘は追いつくことができるのだろうかと、ほんの少し心苦しさも覚えた。

思えば、娘が生まれてから、やれ首がすわっただの、ハイハイしただの、歩いただの、コップ飲みができるようになった、スプーンが使えるようになっただとか、そんなことでも、周りと比べて遅いのかどうかというのは、気になっていたと思う。自分の性分なのかもしれないが、周りと比較して無駄に悩む時間を過ごすのは良くないと、それは常々思っていた。

それを断ち切るためにつらつらと考えていることを吐き出そう

自分が幼少期の頃を思い返してみれば、私は年長でもおしっこが間に合わずにおもらしするような子どもだったし、運動神経もすごく悪かった。そして、7歳違いの姉と母に可愛がられ、家ではわがまま放題、外では内弁慶で友達が少なかった。一方、幼馴染の友だちは男の子も女の子も分け隔てなく付き合い、お母さんが教育熱心だったので、幼稚園から字がとてもきれいだったし、一輪車もフラフープも得意だった。

一番近くにいただけに、きっと私たちは比較されやすかっただろうと思うけど、母は幼馴染のいいところを褒めつつも、「少しは見習いなさい」とか「〇〇ちゃんはできるのに」みたいな、比較して貶めるようなことは決してなかった。さほど褒めるところのない私のことも(これは正直本当にそう思う)、たくさん褒めてくれたと思う。「あんたは感性が豊かだね」とか「負けず嫌いなのはいいことだ」とか「えくぼが本当にかわいい」だとか(笑)

大きくなるにつれ、私も得意なことができて、そのことによって周りから評価される機会もあったが、母は小さい頃から変わらなかった。大人になって、不器用な私がつくった簡単な料理も「パパっと作ってすごいね、これすごくおいしいわ」と笑う。

幼稚園の頃、大きな格差のあった私と幼馴染だが、今でも仲がいい友達だ。発達がゆっくりだった私も、何でもできた幼馴染も、等しく30年の時間が流れて、今は姉妹や兄弟以上に思い出を共有している存在だ。もしも幼少期に親から「〇〇ちゃんはできるのに」とか「少しは見習いなさい」みたいに言われて育ったら、劣等感を持って、一緒にいるのが辛くなったかもしれない。

自分は自分、幼馴染は幼馴染、別個の人間だと線引きできていたのに、今度、自分の子どもは他の子と比べてどうこうみたいな比較を自分はしていたんだな。改めて反省した次第だ。

「ハイハイできるか」「歩けるか」の先に
「足が速いか」「字が読み書きできるか」があって、その更に先には「テストの得点」「進学先」とか、もっとわかりやすくて、ついつい劣等感を抱きやすい指標があるのは間違いない。ただ、人生全体でその子が幸せになるかどうかというのはまた別のところに要因があるんだろうなとも、30代の今は思う。それはレジリエンスや自己肯定感みたいな話になるんだろうけど、それを踏まえて親としてどう振る舞うかまで考え出すと、また時間がかかりそうなので、一旦、やめておこう。

とりあえず些細なことも忘れずに褒めよう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?