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感想文の自由

このnoteを始めてから、感想を書くことについて考えることが多くなりました。
読書感想文といえば、夏休みの宿題を思い出しますね。
私は作文が嫌いではなかったので、「うわー!無理無理無理!」みたいな忌避感はありませんでした。でも楽しくもない。
何故「読書感想文」はあんなにも嫌なのか。

課題で出される読書感想文がつらいのは、
「たいして興味のない本(もしくは限られた選択肢からしか選べない本)」を
「他人が指定してきた文字数」、「求められる形式」で
「書かなければならない」からではないでしょうか。

嫌になるのは、こういう何重にもかけられた恐ろしい地獄の罠のせいだ!と力説したくなります。
本読む段階で嫌いになっちゃうよ〜
好き嫌いとかの自然な感情を、「ほら!アウトプットして出せ!面白かった?感動した?どういうふうに感動したんだ!」とか強制されるの良くないよ〜
せっかくの気持ちも消えちゃうよ〜
なんて思いもあります。

読書と作文は、個人的な心の中に踏み込むのに「やらされ」感があるのが嫌われる原因なのかと思います。

ただですね、読書感想文や作文を否定することはできません。
自分の気持ちを文字にする訓練は大事です。考えを組み立てる、思ったことを伝える、自分の目で見たことを文章におこす。そのための練習でもあるからです。
社会的な生き物である人間に必須の能力。
伝えるために必要な技術を身につけるためには、多少の苦労もしないといけないのは仕方がない。
私は読書も作文もどちらも好きだからこそ、思うことも書きたいテーマもあります。
けれど、こういう課題はどうしてもテーマを選べません。義務感との板挟みになって「嫌いにさせないでほしい〜」と思いながら学生時代を過ごしました。

とまあこの話題になると白熱してしまいますが、個人的に好き勝手に書くから、感想文ですよね。

「好き」のエネルギーってすごいです。
あらゆる分野において、発展してきたのは「好き」とか「楽しい」という感情の発露のおかげだと個人的には思っていて。
そこに少しでも楽しいという気持ちや好きな気持ちがなければ、音楽も芸術も科学分野も何もかも、誰も続けられなかったはず。
そんな壮大な話だけではなく、趣味にかける熱量というものに圧倒される瞬間というのは、すぐ身近に感じたことがあるのではないでしょうか。
ライブ会場だとか、フェスだとか、イベントだとか。インターネットごしですら、好きなものを語る人だとか、つぶやきやコメントにも。
そういう時、人が発するエネルギー量は本当に「熱い」ものがあります。

なので私は、感想文を通して「好き」「おもしろい」と伝えたいなと思うのです。

なので、逆に感想を書かない本はもちろんあります。
ネガティブな感想しかない時、シンプルに合わないと思ったり楽しめなかったり、人に見せるような感想がない時などです。
「おもしろくない」と思ったのは私の勝手で、それを公表しても何にもならないからです。誰の利益にもなりません。
それは誤字や文章の矛盾を指摘することとは違います。
そして、私は「この考え方はこういう理由で違うと思う」みたいな批評もできません。
そういう部分を、面白い文章にすることもできません。
個人的な意見になりますし、ただのクレームになってしまうかも知れないからです。
それを文字にして、人の目に触れる場所に置くというのは、私にとっても非常にストレスです。
もちろん、「私にはおもしろくなかった」というのもひとつの感想ではあるのです。
でも、どんな形であれ否定するというのは、それを好きな人の心を踏みつけるような気持ちになります。これも、個人的な感想ですね。
まあ、シンプルに文章が浮かばないというのが最大の理由ですが…。

読んでみて、「普通かな」と思う本もあります。
そういう時もまとまった感想にならないことが多いです。おもしろくはあるけど、そこまで語りたいこともないなぁという。
それを感想文にしようとするのも、私にとってつらいことです。
夏休みの読書感想文を思い出させます。文字数かせぎに、文章を捻り出す。
何か思うことがあったり考えさせられるから感想って出てくるのであって、「おもしろかったな〜」「このキャラが好きだったわ〜」しか残らないことだってあるわけです。
常に考えながら読書しているわけではありませんから、それでいいと思っています。
そういう軽い感覚も好きです。いつも長文の感想が出てくる本ばかりを読むのも疲れてしまいます。頭空っぽ、感想も空っぽで読めることも大事な娯楽だと思っています。
無理矢理に長文にしたところで、誰も楽しくないのです。

私は、「これ、おもしろかった」「良かった」という思いを共有したい。
それを念頭に置いて書くことにしています。

それでは、また。

いちこ

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