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Fの調律

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物語の幕間。FからGへ、調律されることばの群れ

?:物語するもの
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?:やあ。少し見ない間に君はもう眠ってしまったのか。
?:しようがないな。君の眠りの傍らで、月光のひそやかさで語りだそう。
?:静けさを求められる場面においても私はひたすらに語らざるを得ない。もちろん物語とは心地よいものだよ。君の鼓動とともに流れ出ていた血潮のように。石を打てば返る響きのように。自然で、抗いがたく、だからこそ心地よいものだ。ひとたび私が黙すれば物語は吹き溜まり、あふれかえり、濁流となって聞くものをさらっていくだろう。
?:今この時も、此の時も、物語は不断に生成されなくてはならない。ある命が生まれるならば。ある人が瞬くならば。ある人の息吹がいきかうならば。私の言葉が或る耳に流れ込むならば。
?:無数に漂いだす糸を錘(つむ)に巻き、物語は紡がれる。物語が続くならば語らなければ。秩序正しく語らなくては。手始めにいまは君を語るのだ。
?:物語を他者として聞く限り、それは甘く悲しく美しいはずなのだ。古今、人々はそうして笑い、泣き、手を打って讃美してきた。
?:私を見、聞き、そして煩わしく思ったならばそれは、物語を物語として享受することをやめたからだ。物語に踏み入り、語られる文字となろうとするからだ。
?:いまや君は冷たく地中で眠りをむさぼり、正しく物語の中に封じられた。ようやく私の口によって文字になろうとしているのだ。喜びたまえ。
?:私の語る言葉は金の卵だ。カナの葡萄酒だ。粋を取り集め、それでいて髄を欠く。いつまでも空虚にして終幕を迎えない。クライマックスが寄せては引き、寄せては引き、大鯨のごとく永遠に揺蕩っている。
?:物語に幕を引けない語り部ほどあわれなものは無いのだよ。チャリティーをもらえぬ乞食と同じだ、それ以下だ。
?:そも。私は語る者ではなかったのだ。語られる者だ。開かれたままに私の物語を投げ出した君がいなければ。
?:かつて私を語り、綴りだした詩人がいた、たしかにかつて、私を知った。私を語り、語らせ、詩人よ、君は死んだ。金の字で私の物語を綴って、死んでいった。
?:「ゲーテ」。偉大なるゲーテ、ゲーテ!君のためにうち建てられたあの金字塔を見るがいい。眠れる詩人よ、過去の人よ。君の開いた本は今私の手にある。
?:いまや私を見る者の、多いこと。語る文字の多いこと。演ずる声の、多いこと。喇叭のように私を呼びたてて眠らせぬ。幕を下せやしない。恨めしいことだ、ゲーテ、私の詩人。私を書き起こしておきながら。私を眠らせず君ばかり石の下に眠るのか。
?:名乗るならばドクトル・ファウスト。語るならばドクトル・ファウスト。幸福なるファウストゥス、悲劇たるファウスト。知の探求に深淵を見た男、堕落者にして天の住人、人にして人に非ず、人を愛さず、退屈を憎み。快楽を過ごし、永遠を見、魔女の宴で杯を交わし、黄金は遂に得られず、愛する女は腕(かいな)より崩れ落ち。知恵の目は灰色にさらわれ、悪魔の墓穴を逃れては、ひとり神の膝に安らぐ。そのように君に語られた。
?:いま。いまもなお。金の文字、華麗なるテキストの与り知らぬ所で私は旅をする。
?:君に与えられた悪魔の翼に縋り、あらゆる時、あらゆる場、あらゆる歴史を飛び歩く。そこに開く物語に愉悦を求めて。ワルプルギスに勝る背徳の盃を、ヘレネ―に勝る美女の誘惑を、皇帝にささげた勝利に勝る高揚を求めて。堕落者の胸を焦がして。
?:新時代に未知を、古に発見を求めて、学者の魂を燃やして。
?:いまもなお、人の世にて歴史をたぐる。井戸の底の金貨を掬う如く、海辺に桜色の貝を見出すごとく。
?:「美しい」と一言の賛辞とともに魂を食らわれる、その瞬間を迎えるために。羊皮紙に焼き付いた契約を終えるために。物語に最後のピリオドを打つために。
?:いたづらに、時の女を抱いては、産まれる子の醜さに頬をゆがめて打ち殺す。
?:これでない。平凡なり。これでない。凡庸なり。これでない。使い古されたレトリック。これでない。かつて見たスケール。これでは、これでも、これでもない。次だ、次へ、次こそは。
?:人の為すことの振れ幅の何と小さなこと。いま生まれた物語は、語る端から無個性に没す。新しげなものは落日の速さで陳腐に沈みゆく。「愛している」という言葉は初めて口にされたときのみ薔薇の露のようだったが、再び口にされたときから萎びて腐臭を放っていた。
?:建国か、革命か、戦争か、独立か、よいだろう。だがそれは既に誰かが為した。愛か、友か、涙か、血か、良いことだ、しかしそれは既に誰かが言った。もう私はそれを語った。何度も何度もそれを見た。
?:既にあるのだよ、その轍は、その展開は、その言葉は、その顔は!どうしてその一本道のほかを見せてくれないのだ、私は踏み固められた既知をほのかに侵す未知が知りたいのだ!光のあたらぬ原初の闇の臓腑をロゴスで切り拓きたいのだ、そこにしか恍惚はないのだ!
?:なぜそうも陳腐なのだ、なぜそうもありふれている?どこへ行っても、いつへ行っても、なぜ?
?:時よ!歴史よ!石女(うまずめ)になってしまえ、お前など、お前など。ああ、思い出すのはグリムヒルドの美しさ。いまこそ、次こそ、このファウストにあの言葉を!「時よ、お前は美しい」と!そう言わしめよ!そうでなくては。私は、この語り部はもはや、毎秒砂を噛むようだよ……
?:……………ふ。ふふふふふふ。
?:R・I・P。これもまた、腐った言葉だ、君にふさわしくない。
?:いいだろう、私が君の墓碑をふさわしく刻みなおそう。君が世の人の口を去るまで、神が君を忘れるまで、戯曲を演じてやろう。ペンを離れ、自律して走り出した私の物語を。そしてふさわしい幕引きを。
?:物語が美しく心地よいのはそれを他者として聞くからだ。ひとたび物語に踏み入れば飛び交う虫より煩わしい。しゃれこうべより空虚で、種無しパンより味気ない。私は私の物語から他者たりえず、永遠に砂を噛むのだ。それでもあの、ひとつの物語を終え本を閉じる一瞬の、冒涜的な美しさ。その刹那に餓(かつ)えて。
?:語り、かつ騙り、歌い、かつ謳い。そうして紡ぐ糸を伸べてゆこう。ラヴュリントスもアリアドネの糸を引けば破れるというからには。いずれこの変り映えのしない物語を打破できるのだよ。探求の魂がそう言っている。語り続けよ、と。叩けよ、さらば開かれん。真新しい一節のために。さあ、次なる歴史の扉を叩こう。
?:我が愛すべき詩人ゲーテへ、尊大なる堕落者より。戯曲『ファウスト』の続きを、続きを。

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