わたしの声などというものは。
わたしの声などというものは
言語のひとつなのです。
わたしのことばそのものが、もうわたしを主張しています。
それをどう伝えようかと考えるとき、わたしの声がそこにあります。
言語のひとつなのです。選択肢の一つなのです。
たとえるなら、ことばを奏でるオルゴールです。
あるいは、
あなたと肩を組みたい、という
あなたの方へ泳いでいこうとしています、という
あなたとの間にカーテンをひこうとしています、という
手紙の一通に過ぎないのです。
あるいは、照明弾なのです。
あ
というわたしの声。
「あ、」
いまパチリとわからなくなった。止まりました。
「あー」
いま考えている。考え中です。
「あっ。……」
いま、何か腑に落ちて。歩き出しました。
つまりは信号機なのです。
やりとりを、するときに。
拳と拳をかざしあって、どちらも仕舞えなくなったときに。
からだの棘をしまうことがどうしてもできなかったときでも。
ことばの矛は少なくともしまうことができます。
わたしの声などというものは、
最高音を歌い上げるオペラ歌手の削げるような切なさをもって、
ことばの矛をおさめるための、
ありふれた、使い込まれた鞘でありたい。
わたしの声は、
わたしのことばがわたしの顔をしていることを目の当たりにする、ための
手かがみなのです。
わたしとして今を消費している、ことを知るための量りなのです。
生きているという意味の、
悔いては焦り焦っては悔いるという意味の、
鼓動の数だけキスをするという意味の、
生を祝福する、という意味の。
言語のひとつにすぎないのです。
わたしの声がなくなったとき
わたしはブラックホールのような喉でことばを歌おうとするでしょう。
戦地のカナリアのように悲壮な音をあげるでしょう。
それはそれは、美しいでしょう。
そうならぬ今を愛しながら、そうなったイフを夢見ながら、
煙のように尾を引いて、声を放ち続けています。
わたしの、声などというものは。
いつか来る沈黙を迎える、テ・デウムであればそれでよいのです。
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