【小説版】暑中三行半
道の先に水のきらめきを見つけて、駆け寄ってから陽炎と気が付いた。ここ数日雨など降っていないのだ。手近な木陰へ駆け込むとひやりと首筋のあたりを風がさすっていく。木陰から見た土の道は一面湯をかけたようにゆらゆらとかすんで、とてもそこへ踏み出していく気がしない。金魚鉢片手に、帽子を持ってくればよかったといまさら後悔した。
「何やってんの」
どこからか降ってきた声がぼんやりした頭にやたら響く。
「なぁ」
自分に向けられたものでないと無理な思い込みをしてみようと寝っころがっているのに、第二声が追い打ちをかけた。のろのろ首を向けた先に、ジ―パンの足が二つ突っ立っている。
「どうしたん……」
「何でもない」
ふぅん、と間の抜けた合いの手に低く笑う声が続いた。
「ああ、金魚」
腹の上に抱えていた金魚鉢を骨ばった手が取り上げていった。はるか上のほうで男が笑いかけている。それだけ見るとあとはもう瞼を上げるのも億劫になって眠ってしまうことにした。
視界いっぱいに煤けた色の木組みが映っている。何度かぱちぱちと瞬いて、それが天井だと気が付いた。
「おはようさん」
目の端の方に青がちらちらするとおもったら、ジ―パン男が胡座をかいているのだ。
「ここどこだ」
「この暑い中帽子もなしに歩いたら、そりゃぶっ倒れるわ」
「どこだよ、ここ」
「ほんま、暑いなぁ今日」
枕元の男は、かみ合わない会話を修正する気もなく間抜けな声を上げて立って行ってしまった。口の中でさんざ男の背中に悪口を言いながら見回すと、寝かされた布団一式の他に何もない部屋だ。簾からこぼれた光が散らばっている。あけっぴろげな縁側には金魚鉢がごく自然に飾られてあった。
「どや? ええ風情やろ」
ジ―ジャンにジ―パンからいつの間にか紺の絣に早変わりした男が戻ってきて、機嫌よく金魚を見下ろしている。鼻を鳴らしてやると柔らかな笑みを崩さずにこちらへ振り向いた。
「俺の間借りしてる家でな」
「誘拐かよ」
心外そうな表情を期待したのに、眉一筋動かなかった。
「そんなん、目の前でぶっ倒れられたらたまらんやんか」
「ぶっ倒れてねぇ、寝てただけだ」
「ここまで運ばれても気づかへんかったくせに良ぅ言うわ」
そう言われるともう降参するほかなく、思わず膨らした頬を見て、男がとうとう声を上げて笑い出す。
「名前ぐらい言えよ」
「まどか」
「オカマみてぇな名前」
起き上がろうとした目の前が白く瞬いている。
「じぃっとしとき。慌てたってまたぶっ倒れるだけやし」
辛うじて首を持ち上げたところで、指で額を突かれて枕に逆戻りした。素知らぬ風に首をかしげる男は、仕草も口調もひとつひとつがのんびりと間延びしている。
「何してたん、こんな田舎で」
「うるさい」
男は残念そうに顔をしかめた後、おもむろに庭へおりると、手桶を持って帰ってきた。畳に置かれた途端に涼しげな水音が響く。まくった腕をそこへざぶりとやって、手ぬぐいを掴み出してきた。きりきり手ぬぐいが絞られる音を水音の中に聞きながら、また少し眠ったらしい。
目の上へ冷たい布が乗っている。
「何しに来たん、こんなとこへ」
のけようとしたところで唐突に顔へ緩い風が吹き付けた。男が、どこから取り出したのか白い扇でこちらをあおいでいる。それが存外心地よい。
「墓参り」
「ふぅん」
聞きたがった割に反応は薄かった。
「姉ちゃんの墓なんやろ」
月並みな反応の代わりに知るはずもないことをしゃぁしゃぁと口にする。警戒が顔に出たのか、男はたたんだ扇で自分の眉間を指した。
「皺、寄っとるで。強がりで、すぐココに皺よせて。姉ちゃんによぉ似とる」
「どこが」
「よぉ言われるやろ、似てるて」
似ているとはついぞ言われたことがない。母親でさえ似ていないといったのだ。
「偉いなぁ。金魚連れて墓参り。この暑い中を、こんな田舎まで」
またぶり返した頭痛にしばし目をつむり、まぶたの裏にちらつく小さな光を眺める。
再び目を開けたとき、男は縁側へ腰をかけ、金魚鉢に指先を浸していた。生白い手が水の中で金魚の赤い尾を追っている。
「好きやったもんなぁ、金魚」
「おい」
「それも赤いのやないとお気に召さんで」
「あんた、なんだ」
あいつの、何だ。そう聞きたいのをやっとのことで飲み込んだ。男はふいとそっぽを向いた。
「無粋なこと言うなぁ」
痛いくらいだった陽射しがふっと翳り、重ねて尋ねる言葉を探している間にまた差しこんでくる。しばらくして振り向けられた顔は、もう柔らかな笑みを取り繕っていた。
「もう帰るん?」
物も言わずに立ち上がった背をのんびり口調が追ってくる。
「気ぃつけてな」
独り言と水音にせかされて、振り返りもせずに男の家を飛び出した。
目の前にのびる緩い坂道の頂上に大きな陽が差しかかっている。まぶしさにうつむいてめちゃくちゃに走り出した。一歩一歩の衝撃が頭に響くたび、泣きそうになりながら走った。
坂の上の夕日は、駆け上がるにつれてだんだんに大きくなるようだ。わき出してくる思い出に唇をかみしめて更に足を速めていく。そのうち、ふくらはぎにつきん、ときた。足を止め、荒く息をついて夕日の赤に臨んだ途端、赤い金魚を思い出した。
空っぽの両手を長いこと眺めてから、のろのろと振り返る。坂のふもとには今し方飛び出してきた平屋が陽炎の中に涼しげに静まっている。その静けさの中へ引き返すのがそのとき何故かひどく恐ろしかった。じりじりと背を夕日に焼かれながら、男の家を睨めつけて立ち尽くしていた。
やけくそで引き戸を壊れんばかりに開けると、土間で下駄をつっかけた男がきょとんとして立っている。
「ああ、丁度ええ」
こちらは肩で息をしているのに男の方はあくまでのんびりだ。その手の上に金魚鉢がのっている。
「これ、忘れたやろ」
「返せ」
上がった息の間に吐き捨て、吐き捨てた途端に一気に膝から力が抜けた。くらくらしながら振り仰いだ先に金魚が涼しげに尾をひるがえす。クソ忌々しい、熱中症なんぞなるもんじゃない。
「ほれ見ぃ。病人が走ったりするからや」
ホイホイ送り出したくせして、よく言う。
「今日は泊まってき。な?」
まっぴらだ、もう。
その日はそのまま男の作った夕飯を食い、与えられた布団に収まって寝た。
次の朝、昼頃になっても男は起こしに来なかった。家に帰ればこんなぐうたらは出来ないから良い気分ではあったが、さすがに腹は減る。空きっ腹に、便所にも行きたい、それに暑い。起き上がるのが面倒で汗で重くなった布団の上をのたうち廻っていると、男が顔を出した。
「暴れんといてぇな、布団が皺ンなるやろ。昼飯も食うてくか?」
「腹減った。チャ―ハン食いたい。甘いモンも欲しい」
「図太いなぁ」
飯時はとうに過ぎていたが、布団をかたづけた部屋に卓袱台を持ち込んで男も一緒に食卓につく。注文通りにチャ―ハンが来た。男一人の家にしてはいい具を入れている。
「甘いモンは?」
「ないんやからしゃぁないやろ。男の一人暮らしでスイ―ツ常備しとったら気持ち悪いし」
「客が来たときの茶請けとかねぇのかよ。普通あるだろ」
「たいてい客が手土産に持ってくるからええねん」
「ケチ」
朝飯分まで一気にかっこんで一息ついたとき、向かいでスプ―ン片手に思案顔の男がふと言い出した。
「あんた、なぁ。この家に下宿せぇへん?」
「はぁ?」
「ここ、俺一人で借りとくにはもったいないからなぁ」
「……家賃は?」
「タダでええ」
頭の中でそろばんの玉がせわしく上下した。
「まぁ、俺が暇なときは飯も作ったるわ」
皿についた最後の飯粒を掬い取るまでに腹を据えた。ぱさついた喉へ麦茶を流し込んで、箸を置く。
「ごちそさん。晩はカレ―な」
「せやけど肉があらへん。野菜カレ―でええんやったら」
「ダメ。肉買ってくる。金よこせ」
「そこの箪笥みてみ、がま口があるやろ。それ持って行き」
「ちなみに朝はパン派」
「ほなパンも買うてきぃ。俺は朝飯には納豆しか食わへん」
「うへぇ、くっさ」
「やかましいな、嗅いだことないくせに。早う行き」
古ぼけたがま口を引っ掴んでかんかん照りの中へ飛び出していく。坂を越えた途端に蝉の声が強くなった。
店で買い物を済ませるまで、ずっと機械音と喧噪が耳にこだまして参った。慣れた音がやたらにうるさい。坂の頂上まで引き返し、男の家を見下ろしたときにはじめて、その辺りだけ静かなのを知った。車も通らない人も通らない、そのうえ木の少ないせいか蝉の声すらまばらなのだ。
通りすがりに肉とパンを投げこんできた台所で、控えめな調理の音がしていた。
昼が遅れたからと、遅めに出してきたカレ―は旨かったが、少し肉をケチったらしかった。
下宿をはじめたといっても、有り体に言えば居候である。金は要らないといい、飯は出してくる。怪しげな話だと翌朝になってから考え至ったが、男はただ暇つぶしがしたかっただけらしい。
自分が話したいときに顔を出し、一方的に話をする。生返事を返しているとそれで満足して出て行った。時折、金魚にエサをやりたがった。時折、姉の話をした。それだけだ。
金魚鉢は与えられた一室の窓辺においていた。
今現在、昼を食ったばかりだ。飯を食う以外に特にすることといってなく、のんきな金魚を眺めながら重くなってくる瞼と格闘している。寝たからどうなるものでもないが、寝ているうちに男がそばへ来るかもしれぬことを考えるとぞっとしない。距離を置いていたのは自分のはずだったが、一つ屋根の下過ごすうちにだんだんと薄気味悪くなってきた。
食うものは食う。飲むものも飲む。だが、男が眠ったり、風呂へ入ったり、便所にいったり、鼻をほじったりするのは、一度としてみない。日に当たるところへ出ているのを見たのは、この家へ担ぎ込まれる前の、あの木陰が最後だ。
そして男の足音はいつも唐突に、ひどく近くで聞こえる。そのたびにすくみ上り、足のない相手が見る者の目にそなえて足をこしらえたような幻覚に襲われた。
あんまり暇なので、平屋の中を探索することにした。よく考えれば今まで自分の部屋と台所、風呂場に便所くらいしか行き来していないのだ。
自室は玄関から一番遠いところにある。自室の隣にはもう一つ客間、その隣に風呂場。縁がぐるっと家の半周分あって、そのどん詰まりの両側に便所が二つ。台所の方へ行くには一度縁から部屋へ戻って、廊下を二回曲がる。
玄関のすぐそばには洋室が一つあった。見て回った中に洋室はこれ一つきりだ。和室はがらんと何もなくて味気ないくらいだが、この洋室は飴色の小洒落た家具が並んでなかなか華やかだ。
チクタク囁く柱時計の向こう側に戸にガラスをはめた棚があったが、それだけやたら手入れがされていた。磨き上げられたガラスの戸の向こうに人形がずらずら並べてある。白い服の女と、黒い服の男。祝いの服に身を包み、幸福な二人を祝福する人形の列。
異様なのは手に手に花かごを持った白服の女たちがみんな外側に並べられ、黒服の男達が内側でみんな前を向いていることであった。しずしずと進み行く葬列を女達が遠巻きに見物しているような格好になっている。異様ながら、違和がない。女達の笑い声が聞こえてきそうだ。
「人形が気になるんか? ロマンチストやなぁ」
幽霊男は例によって足音もなく後ろにたっている。
「急に後ろ立つな、気持ちわりぃ」
「その人形、あんたの姉さんが俺にくれたんや」
男の口から姉のことを語られるのは初めてではないのに、なぜか鳥肌が立った。
「これ、並べたのってあんた?」
「せやけど」
「一応結婚式とかじゃねぇの、これ。色々間違ってるだろ。センスないよな、あんた」
「人の好みに口出さんといて」
男のふてくされた顔を見ていたら急に思いついた。肝心の花嫁花婿がいない。
「花嫁と花婿は?」
「あんたの姉さんがなぁ、他は全部俺に並べさしといて、花嫁花婿は自分が並べるんや、言うて。ほんで、あの人が隠してしもうたから、どこ行ったんやらわからんようになった」
姉は籍を入れるときにでも出してきて、並べるつもりだったかもしれない。そういうおとぎ話みたいなことが好きだったのはよく知っている。
「ずぅっとしまってたんやけどなぁ、一昨年の秋に出してきたねん」
腹の辺りがひくりと引きつった。姉は、一昨年の夏に死んだのだ。
「自分が他人にあげたモンは大切にされてへんとヘソ曲げるし。難しい人やったわ、ほんま」
ほぉら、違った。
心の中で男を嘲笑った。姉はそんなことは考えない。自分から贈り物をしておいてヘソを曲げるのは相手の興味が贈り物に移るから。姉は独占欲の強い女だったのだから。
男を嘲笑いつつ、目元は熱くなっていた。
空しい。
男は、目元の赤らんだのを姉を慕っての感傷と勘違いして、そっと向こうを向いている。
ますます空しくなった。
歳がみっつ上の姉は、浅黒い顔をいつも不機嫌そうにゆがめて、それでも笑うと白い歯がまばゆい無邪気な顔になった。無愛想で乱暴な言葉ばかりはき出して、刺々しい態度の裏でひどく心の弱い女だった。他の人間とうまくやっていくということがとにかく下手くそ。両親とも何度もいがみ合い、その度に弟を頼って逃げ込んできた。姉弟ふたりのときの姉はまるきり幼い子供に戻ってしまって、夢のような話ばかりした。
あるとき家出して、次の日自分から帰って来るなり恋人を作ったと言ったのには驚いた。
――運命だったのよ。
ぼんやりした変な目をしてそういった。それからも姉は何度か家出したが、男に会いに言ったのだろう。
一昨年から、ずっといない。
葬式はできなかった。飛び降り自殺の死体は、見られたもんじゃないと母が言った。さっさと火葬になって、墓はひどく田舎に作られた。後から聞いた話だが、そこにしてくれという者がいたらしい。
火葬にした後、墓を何処にするかで大げんかしていたところへ男がひとりたずねて来たのだ。土砂降りの中、番傘さした紺の絣のその男は、姉の墓はぜひ自分の家の近くにと言い出した。どう丸め込んだんだか、それで話がまとまって、だから姉の墓はこの近くにある。
「へぇ、そないなとこ住んでんのか。えらい都会やないの」
ある日、ふと思いついて家の住所を教えると男は面白くもなさそうにそう言った。
それっきり、黙り込んで、いつもはしょうもない話をするところを無言で通す。部屋へ話を聞かせに来ることも無かったおかげでこちらまで退屈して、わけもなく縁側を行き来した。
そういえば、昼飯と夕飯の間に腹ごなしがてら家の中をうろつくのを何日か続けたが、一向男の自室が見つからない。人間一匹が寝起きしている部屋なら、灰皿だったりチリ紙だったり、何かあるはずなのだ。それが、どの部屋を覗いてもからりと綺麗に片付いているのだった。そういうものなのだと、こちらも思うようになっていた。
相手がこちらへ会いに来ない限り、この狭い平屋の中で男の姿を見ることはない。こちらから探しに行って見つからないのは実証済みだ。それでも、男の姿を視界に納めていないとどうにも心臓に悪いので、毎日毎日家の中を歩き回った。むろん見つからない。夕暮れになったら、何でもないような顔で飯ができたと呼びに来る。
かくれんぼの鬼になった気分だった。実際、男はそのつもりだったのかもしれない。
朝起きて飯を食い、歩き回り、寝床へ倒れ込んで一日が終わった。
次の日、夕飯の具がないと男がこぼすので、また買い物に行く羽目になった。戸口を飛び出したとたん、眩しさに軽く目眩がした。目をすがめると逆光の中に黒い人影がある。
ぼやぼや霞む坂を背景に、真っ赤な顔した両親が立っていた。
夢から急に引きずり出されたみたいにくらくらしている。
「あらぁ、お久しゅう」
土間へ出てきた男がのんびりと言うのをよそに家の中へ飛び込んで、母親の呼び声を閉め出した。例の洋室へ飛び込むのと同時に男が両親を玄関へ招き入れ、しばらく気まずい沈黙が落ちる。
正直なところ両親が勝手に誤解しているであろうことを考えると聞きたくなかったが、姉のことが話に出るかも知れないと思い直してドアを少し空かして覗いていた。それに気づいたわけでもないだろうが、男がドアの前へ立ってしまったので見えるものも見えない。ぼそぼそと話すのものだから話もよく聞こえない。舌打ちして、必死に目をこらした。硬い顔の両親が何か言い、ああ、とかへぇ、とか男が返す。遣り取りは随分長く続いた。そのうち両親は黙り込んでしまい、男は苦笑して肩をすくめている。
その後ろ姿を眺めていてふいに、背筋にぞくりと来た。
無言の多い遣り取りの結果、息子は連れ帰ることに決まったらしい。唐突に始まった下宿生活で荷物も金銭の話もないために、その決断はえらくあっさりしていた。
両親は意見を押し通しこそしたが、頑として男の方は見なかった。見ないまま、父親は息子が世話になりましたと言った。息子の手を痛いほど握りしめている母親は、娘と息子は似ていないという。似てほしくなかったのかもしれない。よく似ているといった男は、似ていて欲しかったのだ。
玄関先で両親が頭を下げると、男は軽く手を上げて、のんびりと別れを告げた。
「さいなら、また来年」
またぞくりと来たけれども、結局何も言わずに家まで帰ってきた。
両親は、家出まがいの下宿生活を咎めなかった。その辺は男がうまく言いくるめたのか、触れたくないだけなのか、どっちかだ。とにかく変に詮索されないのは有り難かった。ただ、夕飯を抜かれてさっさと寝室へ追いやられたのだけは気に入らない。
畳に敷いた布団になれたあとでは、ベッドはやたらに身体が沈んで寝心地がわるい。色々考えが頭の中を回り出したのでむりやり目を閉じた。
姉が目の前を走っていく。と、思うとすぐに止まった。走っては止まり走っては止まりして、しきりに何かを探している。いつの間にか、自分が走っていた。訳も分からずに走り回って何か探している。足のひきつるまで走り回り、そしてついにうずくまったとき、目の前に手が突き出された。生白い、骨張った指をした男の手が薄闇のなかでぼうっとかすんで見える。そのとき、辺りが薄青い夕暮れであるのをはじめて知った。
そんな、夢を見た。
夢の名残で蹴っ飛ばした布団の上へ腰かけて、姉のことを考えた。
夢見がちなところのあった姉は、幽霊めいたあの男に強烈に憧れたのだ。この世とあの世の境をふわふわしているような不思議な男を夢に見ていたのだ。
いわく、
――運命だったのよ。
そのときは姉が豹変したように思ったが、今ならわからないでもなかった。
顔を洗いに行ってふと、鏡を見た。鏡の中の顔は浅黒く日焼けしている。睨めっこしているうちに眉間がむず痒くなり、だんだん皺が寄ってきた。無理矢理笑うと、白い歯がこぼれて子供みたいな顔になる。そうやると姉に似ていた。
秋も深くなってきた時分になって、父が急に居候させて貰った人にお礼をしなさいと言った。
仕方がないから、手紙を書いた。
便せん一枚に書き殴って、住所も書かずに、来年また墓参りがてら郵便受けに放り込むつもりでいる。
前略 姉さんと、姉さんのゆうれい
暑中お見舞い申し上げます
もうこれっきり
草々
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