私の読書は邪道です

 うっかり趣味は読書ですと言うと、たいてい後悔する。

 読書好きの方に喜ばれてしまって、作家は誰が好きですか、どんなものを読みますかと聞かれる。その質問に私は「さぁー……」と答えることになる。いままで読んだ中で一番オススメは?小説の中で好きな言葉や場面は?「さぁー……」。そういう具合だから私は口が裂けても、趣味は読書ですと言わない。

 私の読書は邪道なので。最近はそう開き直っている。

 本を頭からじっくりと読む。続きものなら全巻揃える。好きな本なら作家名や好きな文句はそらんじている。読書人として素敵だと思うが、私はやらない。やらないというと不遜だが、有体に言うと飽き性なのだ。

 本を持つと適当にめくり、行き当った1,2ページだけ読んで閉じる。10巻あるものなら3巻だけ買う。こういう中途半端をやっている。結末をちょっと読んでそのままの本まである。

 まじめな読書人であるところの友人は、この話をすると呆れかえってそれで楽しいかと言う。推理小説の結末だけ読んだ話をしたら悲鳴をあげられた。

 自分でも不思議だが私はこんな読み方で十分楽しい。

 もちろん私だってまじめにやれば初めのページから手を付けて、じっくりと美文を楽しむことはできる。できるが10ページも続かない。しかも目が行間を上滑りしてしまって、内容がよく頭に入らない。

 未知の本の、未知のページを開くとまったく文脈を知らない言葉が目に飛び込んでくる。文章の個性がなぐりかかってくる。1,2ページ読むと、登場人物と景色と作者の意識がぼんやりとわかってくる。そこで本を閉じる。しばらく、私の頭はその作品の色と音でみちている。そうやって本からエッセンスを取り込んでいる。

 本のファーストインプレッションだけ味わっているわけだ。コーヒーにお湯を注ぐとき、最初に立つ香り。一番だし、一番搾り。実はとても贅沢な読み方だったりする。

 一冊につき数ページのエッセンスは、思わぬ時に表出する。はじめて行った土地でなつかしさをおぼえたり、感動したときに私のものでない言葉が思い浮かんだり、なぜ知っているかわからないような単語に反応したりする。

 ただ困ったことに、作者の名前や作品の名前がエッセンスと全く結びついていない。というわけで私の読書自慢は貧弱になる。「何の本で読んだか忘れたけどそのお菓子の名前知ってる!」「○○っていう言葉が好きなんだけど……何ていう本で読んだんだろう」これでは読書好きを自称できるはずもない。

 私の家には雑多な本がそこらじゅうに散らばっている。どの部屋にも床に本がばらけている。私は、用事の合間に手当たり次第に拾っては、ぱっと開いてまた床に戻す。部屋が一向に片付かないのはそのせいだ。

 ということだから、この読書法はちっとも推奨しない。目が疲れているときと、眠る前にはいいかもしれないけれども。

 邪道は邪道なりに、まぁまぁ楽しいよという話だ。

 

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