道程を掃き清む

 ああ、なんでも道筋があると思わない方がいいな。

 と思ったことがある。そういう当たり前の気づきが訪れるとき、思い出すのは教科書の見開き。題名も作者も忘れたが、フと出てくるのが教科書だ。思い出したように効くおくすり。

 誰が言ったか、私の前に道は無いというような。

 まさに、と思うことが増えた。この非常時、用意されていない手続きが求められるようになった。新しい紙に自分がとりあえず線をひく。仮のつもりがそれがホントになる。素人だの初心者だのと言っておられぬ。めんどうっちぃがおもしろい。非常なときこそ変わり種が活きるとき。

 私が成長を感じることなどめったにない。なかった。最近ちょっとある。たとえば、文章を書いていてオッ、韻を踏んでしまったぞぉ、と思う。韻なんぞ意識する日がくるとは思わなかった。人生も意外に長い、人は意外に成長している。私より若い人が気づいたらたくさんいる。何も知らないまま先頭に押しだされていたりする。祖父の葬式で焼香の作法を知らないでどぎまぎしたことを思い出す。

 世代が動く、という現象を目にしている。おとなたちが押しだされていく。ところてんのように無垢なままおとなに押しだされていく。まぁ、それはそれで、と霞を食う。世を嘆くような頭はない。

 人に会うことが減って、特におとなに会わなくなった。私はおとなの多いコミュニティで育ったので、今自分が変っていっていることをひしひしと感じる。学生の身分上学生にしか会わなくなった。学生っぽく、なっていく。ネット上では世代様々な人と話しているはずだけどどんな人でも同じように感じられる。どうやらSNSは人を似たようなものにする。同じものを観て、同じ言葉遣いをする、同じ時に同じことをする。教室が一緒の学生みたいだ。可愛らしいことである。おもしろい、おもしろいなぁ。同じ世代の若い人より少し上の人が幼く見えたりもするものだし。会って話すおとなも、おとなに見えているけれど、SNSではこどもになるのかもしれない。こどものようなおとなのような彼らにそれぞれ道があるわけだ。

 そう考えると、道筋なんぞさっぱりわからん。自分の道なんぞは、やはり自分で整えるしかないのだと。ここにも当たり前の気づきがある。

 道を進むというのは難しい。進んでいると思うのすら難しい。褒められたと思ったら壁にあたる。それを繰り返す。ここまで進んだと思ったら夢だったというような。人に愚痴っていたら紛れて気づかないこの繰り返しに、最近ぶちあたる。壁にあたって四苦八苦することがどれだけの成長につながるかということも、近頃ようやく体が覚えた。

 けものみちのような私の道があるとして。失敗や、挫折や、届かなかったことは、石だと思おう。道の石を蹴るのは好きだ。駅の鳩を追うのも好きだ。蹴躓くから、踏みそうになるから、石を脇へ、鳩を飛ばして、ともにありやすいように。草を踏み分けて。露に濡れるズボンの裾に辟易し、だんだん水遊びする子供の思い切りよさでズボンをたくし上げて走っていく。その先に切り取ったようなフチがあるのか、断崖絶壁があるのか、太陽の沈む穴があるのか、魚が口を開けて待っているのか。そんな夢を見ながら走っていく。

 ここまできてやっと思い出した。高村光太郎『道程』だ。庭師のように道を整えて、先の夢をみよう。とりあえずそれでいい。

 

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