2019年、冬、貰った本

今年も懲りずに古本屋で、題名も覚えていない本を探す。
あれをもらったのは確か、2019年の冬だった。雨と雪の中間のような、煮え切らない空模様だった。

大学院に進む前に、高校の恩師に貰った本だった、と思う。
「たまには小説も読んだらいいからね」
当時小説と漫画しか読んでいなかった私は恩師の言うことがよくわからなかった。はぁ、と曖昧に返事をしてきれいに包まれた薄い本をもらった。
小説は「たまには読んだら」というようなもので、もっとむつかしい本を読まなくてはいけなかったのではないか。今考えれば、胃の痛くなるような言葉だったと思う。年齢からすれば楽観的で幼かった私には、わからなかった。大学院の授業に出なくなって一年がたった頃に、親が本を買ったといえば喜び、小説だと言えば失望した、その顔を見てわかった。
その本をもらったのは2019年の冬、私が大学院に進むことが決まり、高校を久しぶりに訪れた時だった。
その高校は、何の変哲もない公立の高校で、変わった所と言えばグラウンドが狭いということだった。大縄跳びもできない、砂場くらいの広さだった。運動会は他の学校の運動場を借りていたような気がする。その運動場が交通の便の悪いところで、みんなブウブウ言いながら朝の早くから集まっていたのを覚えている。
その先生は、数学の先生だった。私は国語が得意ではなかったが、かといって数学も得意ではなかった。不思議なことに先生は私がどの教科もふるわないことを気にもしないようだった。他の先生からは進学クラスにしては振るわないことを心配されたりもした。さらに、私の7つ上の従妹は数学がよくできたらしく、私の顔を見るたびに、数学をやれ数学はどこまで習ったの数Ⅲができなくても数Ⅱができたらなんとかなる、と数学の話をした。だから私はこの従妹が嫌いだった。
そう。そんな高校の、そんな先生から2019年冬にもらった薄い小説の本だった。

きれいな紙で包装された本なんかもらったのはそれが初めてだった。本を買ってもらうのはたいてい本屋でねだるときだけだった。私はあのビニルの包装がきらいだった。
他には何をもらっただろう。
数学のできる7つ上の従妹からは、誕生日と正月の度に図書券かコーヒー券を交互にもらった。貰うたびに心がからっぽになった。
昔は飛び出す仕掛けカードや音の鳴るカードをくれた親戚も、突然図書券をくれるようになった。カードを幼い頃のように喜べなくなったのが伝わったように思って、申し訳なくなった。
図書券をもらうとすぐに本屋へでかけた。一週間も使わないと財布の中で忘れ去られてしまうからだ。大きなビルに入った大きな本屋に行った。入口の機械で検索してレシートを出し、それをガサガサ握りながら棚の間をうろうろするのが好きだ。色々な棚を見た。あいうえお順で作家の並ぶ棚では好きな作家のところで立ち止まって本の背をじっくりと見た。少女漫画の棚には長居した。雑誌の棚も一回りした。新書の棚は同じような装丁ばかりでつまらない。特集で店頭に並べられたものは、どうしても目について一冊は買った。周りの人間が読む本と言えば、研究書と、新書だった。私が買った本と言えば、芋虫の図鑑だった。それと色の図鑑と、有名な小説家の短編集だった。他の日には漫画を買った。漫画は安いから何冊も買えていい。レジに持っていくと紙のブックカバーは何枚要りますかと聞かれるのが、なぜか好きだった。いつも一枚だけもらって、その一枚をため込んだ。ため込んでも別に使うわけでもなかったので、部屋が小汚くなるだけだった。
図書券やコーヒー券の他には何をもらっただろう。
似合わない服を時々もらった。そういう服は親の趣味だった。かわいらしい服を親に着せられていた幼い頃の私、写真の中で猿のように笑う私が成長して、私とは別に外を闊歩しているのかもしれない。貰った大人サイズの少女服を見ていると、そんな気がしてくる。
2019年冬、初めて本を貰って高校を出た後、ぶらぶらとデパートを歩いた。その日鞄を持って行かなかったので、本の包みを握って歩いた。きれいな包装紙には手汗が滲んだ。服や、菓子や、中華まんや、アクセサリや、文房具を見て歩いた。色々なものが良く見えたが、手に取って一歩歩いた途端にハッと要らなくなって離した。結局、手汗の滲んだ包みだけ持って家に帰り、そして包装紙を解き、そして。
そしてどうしたのだったか。

そこまで考えてぼんやりと眠りに落ちたらしい。電話の音をアラームにしたら、寝覚めで心臓が止まりそうになった。もっと優しい音にしよう。そうしたらきっと起きられないのだろうけれども、やっぱり優しい音にしよう。
電車に乗りこんだら珍しく満席だった。前に立ったスーツの男が雑誌を片手でひろげ、吊革にぶらさがっていた。よく見るとそれは好きな小説家の短編が入ったミステリ誌だった。いいなぁ、と思った。そういえば、2019年のあの本はミステリだった気がする。ということは読んだのだろうか。何も覚えていない。
今日は映画を見に行くと決めていた。そういえば2019年ごろの私は映画館に行くのがおっくうで家で古いDVDばかり見ていた。今は映画館のスケジュールを見て新しいのが出ると見に行くようになっている。映画館に行くとつい長居がしたくなる。1本見終わってひとり出ていくときの寂しさに勝てず、今日は2本分のチケットを買った。ホットドッグとコーラも買った。買ってから、いつ食べるんだろうと考えた。映画中に食べる気がせず、かといってシアター内が明るいうちに食べるのも気が引けて、結局シアターの外のベンチで冷めきったホットドッグを食べた。コーラは必死に上演前に飲んだので腹の具合が悪くなった。今日見た映画はサスペンスだった。2019年の本はやっぱりサスペンスだったかもしれない。

どうしても気になって家に帰るなり本棚をひっくり返して探し回った。結局、見つけたのは押入れの段ボールの中だった。
見つけた時には泣いていた。ただ泣けて泣けて泣けてきた。埃のせいだったのかもしれない。
鼻水を垂らしながらその本を読んだ。一文ごとにティッシュをとった。何も見えなかった。読み終わったその本を、私は小学生から使っている低すぎる勉強机の、ちゃちな国語辞典と昆虫図鑑の横に押し込んだ。薄くてちいさなその本はすっかり潰されている。

あそこに2019年、冬、雨と雪の中間くらいの煮え切らない空模様、「たまには小説も読んだらいいからね」と言った先生のことばがある。

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