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小説「京都 リ・バース」2 城塞の姫君(2) 東の都編


 ◇◇

 大正時代に建てられた重厚な造りの邸宅は、高い天井と冷たい石造り。長い廊下には、数多くの扉が並んでいた。旧式で古風な外観、内装を残しつつ、雪村一家が越してからは、現代的な改築が施されていた。
 上階の家族がよく使う廊下には、深草色の絨毯を敷きつめてある。
 舞の身支度を若いメイドに任せ、塚野は、その廊下を歩いていた。毛足の長すぎない厚みのある絨毯は、家族の為だった。体が弱かったレイナの足元の為、幼子の舞の歩みの為。塚野自身が選んだものだった。
 雪村家には、専属の執事が居るが、仕事に忙殺される修造、留学や都内の邸宅に住まう紫月、二人に気を配っていた。レイナの生前から、舞の教育、邸宅の裏方は家政婦頭の塚野が任されてきていた。
 階段を降りる前に、右手の、閉ざされている両開きの扉を見た。これまで十年間、何度となく、願うようにすがるように見つめた扉だった。
 百合の花の象嵌のある扉。
 どんなに祈っても、望む人物は、中から姿を現すことはないけれど。
 今朝も、彼女の存在の重さを身に染みて感じた。
 あの扉を小さな拳で叩く舞の姿を目にして、あらゆる想いが。言葉に出来ない、思い出したくもない暗い思いが込み上げてきた。
 どんなに時が経っても。誰も身代わりになどなれない。
 母親を求める気持ちは、誰であろうとどんなことをしても、永遠に消えない。
 十年。雪村レイナが逝ってから、献身的に舞を支えてきたつもりだった。いつか、義務だけではなくなっていた。主従の一線を引きながらも、舞の抱く痛みを、喪失感を埋めることができたらと。舞自身も、心を許してくれていた。けれど。
「……一人にしないで……。鍵を開けて下さい……」そう呟きながら舞は扉を叩き続けていた。
 小さな主を支えきれないという無力感、憔悴。『母』という存在への嫉妬。そんな暗い感情を抱いていた自分への戸惑い。一瞬で思い知らされた時だった。
 塚野が抱え揺さぶると、舞は目を見開き我に返った。自分が何をしていたのか、何故そんなことをしていたのか、わかっていなかった。だから。
「夢をご覧になっていたのですわ……。きっと怖い夢を……」そう言い聞かせた。
 意識せずに心が追い詰められているのだろうと塚野は感じた。夢遊病のような行動を起こすほど。
 今日という、特別な日を。
 顔に出しはしない。舞はそういう子供だった。それが余計に、舞を追い込んでしまうのだろう。
 小さく、祈るように百合の扉に頭を下げた。
 生前のレイナは、塚野に言った。舞を特別扱いはしないで欲しい、と。我が儘を言うならきちんと諭して、手を抜いたり自分だけ楽をしようとするなら、突き放して、叱って欲しい。そうされることで、彼女はどんなことがあっても、人間らしく生き抜いていけるはずだから。
 勿論、と。最後に付け加えた。きちんと良い子にしていたなら、沢山、褒めて甘やかしてあげて下さいね。
「塚野さんは相手をよく見ていて、人を褒めるのが上手だから。舞もとっても喜ぶと思うの」
 ……褒め上手なのは、奥様の方ですわ……。
 気持ちを切り替え、塚野は階下へ降り、プライベートな客に使われる小さな客間へ向かった。
「お待たせを致しました」
 部屋には、三十代前後の細身の男性が居た。仕立ては良いが控え目な色調のスーツを着ていた。唯一、胸の二色遣いのチーフが華やかで、オートクチュールの世界に生きる者らしい選択だった。
「お帽子をお持ち頂いたとか」
 静かに立ち上がった男は、腰の低い物腰でテーブルに置いたケースを指し示した。
「本日のお出掛けに、ベールの付いたお帽子が必要ではないかと、我が主が用意を致しました」
 塚野は感慨深く、目を見張った。
「それは……、なんと深いお気遣いを……」
 男は丁寧に、箱の蓋を引き開ける。
「こちらのベールは二重になっております」
 漆黒色の小さな帽子。同じ黒だが素材の違う二種類の生地が重なり合い立体的に仕立てられ、縁取りはシルクの組紐。同じ素材の組紐が結ばれたワンポイント。ふんわりと長いシフォンのベールが、顎まで隠れる長さに降りていた。その下には、目元だけを残し、黒いレースが唇まで顔立ちを隠すように仕立てられていた。柔らかい手触りのシルクのレースであることを手で触れて確かめ、塚野はまたうなずいた。
「ええ、ええ……。これがあれば、何より安心ですわ」
 ガードたちに守られているとはいえ、不特定多数に顔を晒すのは、塚野の主にとっては、良いことではない。これまで、舞の姿は隠し通してきたのだ。特に、今日のような特別な場では、ゴシップ好きなどんな輩が、来ているかしれない。
 マスコミを警戒して、昨日都内のホテルで行われた雪村修造の四十九日の法要には、彼女は出席させなかった。どうしても立ち会わねばならない、修造の遺言状の開示は、法要の後ではなく、翌日の今日に紫月は指定した。親族たちは不満がったが、紫月は聞くことは無かった。
 塚野も不安を抱いていた。今日という日が、舞を傷つけることになりはしないか。
 いや、確実に傷つけるだろう。舞にとっては、彼女を疎む猛獣の巣に飛び込むようなものだから。唯一の味方は、紫月だけ。だが塚野は知っている。彼女の主は、そんなに弱い子供ではないことを。少女なりに、彼等を受け入れようと努力しているのだから。
「……奥方様は、お変わりありませんか?」
「はい。この通りに。突然、思い立たれて、デザインなさいました」
 男はくすりと微笑んだ。苦笑のようにも見える。線の細い優男だが、オーナーの側近中の側近。彼の上司である女主人の気紛れ。その結果の大暴走には、もう慣れてしまったという苦笑だろう。
「……いつもいつも。舞様によくお似合いなお洋服をお造り頂いて……」
 塚野は独り言のように呟いた。心の底から、感嘆していた。デザイナーの気遣い、想いに。季節ごとに、オーダーメイドの外出着が納められていた。他家のセレブレティたちのように、高級百貨店に出向くことも呼びつけることも無いこの家では、必要なことだった。
 丁寧に指先でベールを直してやる。きっと、このベールのように、様々な手、様々な人の想いが舞を守り支えるのだろう。そう思うと、心が熱くなる。自分も、そうあろうと。
 風に、人の指先にたやすく揺れるベールのように、限りなく無力ではあるけれど。

  ◇◇◇

「お待たせをしました」
 ドアがノックされ、若いメイドと共に、喪服の少女が居間に姿を現した。
 男は立ち上がると、その姿に、一礼した。
「よくお似合いです」
 舞はふっくらとした頬を綻ばせ、塚野と目を合わせ、また小さく微笑んだ。
 サイドの髪をアップにして、すっきりと大人びて見せ、長い髪を背中にまっすぐに下ろした舞。細い首周りは黒いレースの立ち襟。胸元で材質の異なる生地で切り替えたワンピース。少女らしく、ふんわりと広がった膝丈の裾。ボレロは、レースとシルクで襟周り、手首を縁取られていた。
「素敵なお洋服を、いつもありがとうございます。池谷さん、でしたね?」
 年に何度か服を届けることはあっても、逢う機会のほとんどない男の名を、舞はちゃんと覚えていた。塚野は、いつもながら、舞の記憶力の良さに感心した。
「マダム・結(ゆい)様が、こちらのお帽子をお届け下さいました」
「本日のお出掛けに、お使い頂けるようにと。
 こちらの素材は、極薄の絹に和紙を合わせております。一度切りのお使いにのみ耐えられる仕様となっております」
「いつもとは違う結び方ですね」
「はい。普段は、舞様のお幸せを祈った結びを選んでおりますが。こちらは本日の為、喪を現す意味を込めた結びと聞いております」 
 塚野は、舞の背後で目を伏せ聞いていた。違いや変化にすぐに気付き、素直に尋ねる舞。池谷も、率直な舞の関心が心から嬉しいようだった。
 マダム・結ブランドのモチーフは『結び』。デザインの一部には、かならず『結び』が使われてきた。シルク素材の組紐の飾りであったり、生地をゆったりと結んだ風に仕立てたワンポイントであったり。舞の喪服は、ボレロのすこし膨らませた肩口を細い組紐飾りが縁取っていた。
「お帰りになられましたら、私どもで引き取らせて頂きお炊き上げさせていただきます」
「とても素敵。お気遣いに感謝致します、とマダムにお伝え下さい」
 ベールが二重に造られていることの意味を、少女は悟ったようだった。塚野と目を合わせた。
「これに合わせて、髪をアップにした方がいいかしら?」   
「さようでございますね。ではお支度を」
「池谷さん、まだお時間ありますか?」
「あ……。勿論です」
 目をきらきらとさせて、舞は怪訝顔の池谷に言った。
「では、待っていて下さいね。お帽子、ちゃんと位置が合っているかどうか、見て頂きたいの」 
「はい。よろしければ、私がお付け致しましょう。マダム・結の代理として」
 ポケットから取り出したケースを開き、池谷は二本の真珠のついた髪止めピンを舞に見せた。
 若いメイドと連れ立って弾むように出て行く舞を見送ってから、塚野はテーブルの冷めたティーカップをトレイに引き取った。
「お代わりをお持ちしますわ」
「……余計な、事を言ったでしょうか?」
 塚野の顔色を伺う池谷。
「舞様は、いつもあなたに会えずにいることを残念がっておいででしたわ。
 マダム・結様は、どんな方なのか聞きたかったご様子で……」
「……それは、少し困った質問になりますね」
 マダム・結のプロフィールは公にも完全にシークレットになっていた。女性であるか男性か、性別も非公開。ブランド自身、一部のセレブと業界関係者にはとみに高名で、あくまでもプライベートブランドを目指すラインナップであった。
「マダム・結様は、『余計なことを……』と、おっしゃるでしょうねえ」
 ギクリと、池谷は真顔になった。塚野の刺した釘に本心から冷や汗をかいたようだった。
「勿論。私は、言い付けたりは致しませんよ。舞様が、あんなに喜んでいらっしゃるのですもの」   
 舞のいつも通りの少女らしい弾んだ笑みに、塚野もほっと安堵していた。

※ 2 城塞の姫君(2)完 2 城塞の姫君(3)に続きます。


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