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アンジェラが人間として再生する物語ーコロナ禍の今だからこそ観たい傑作SF『楽園追放』

コロナの流行により世の中は瞬く間に激変していった。
ライブチャットアプリzoomeによるオンライン会議や飲み会が急増し、巣ごもり需要により皮肉にもインドア趣味や通信販売事業などが隆盛している一方で、飲食店など実店舗の多くが苦境に立たされている。
あとコロナは関係ないけどVTuberなどの外見に替えがきくアバターや物理的なやり取りが希薄な電子マネーなんかの普及も入るかも。
変わらざるを得なかったとはいえ、人との触れ合いが徐々に減っていく状況を見てボンヤリと思う。
世の中オンライン化が進んでいくうちに、人間性も失っていってるのでは…と。
突飛かもしれない発想だけど。
事実、令和の世の中になってから凶悪犯罪を特にニュースで多く目にするようにもなっている。
実感というものを得づらいからこそ、痛みをわかることが出来なくなっているのかもしれない。

前置きはこのぐらいにして本題。
フル3DCGで描かれたSFアニメ映画『楽園追放 -Expelled from paradise-』についての内容。

この作品についてそのうちレビュー記事にでもしようかなとボンヤリ考えていたけど、YouTubeにて期間限定プレミア公開された事でちょうどいい機会なのでレビューを書くことにした。
そしてまた放置してしまったので虚淵玄繋がりで「バブル」が公開されたのを機に今頃になって書きあげた

物語を大雑把に説明するとスペースコロニー・ディーヴァ内部のコンピューターに住まう電脳パーソナリティと呼ばれる肉体を持たない人間アンジェラ・バルザックが過去の事件により荒れた地球を舞台に、音楽などを愛する人間ディンゴと人間の心を持った機械フロンティアセッターと触れ合い心境に変化が生じていく…という内容だ。

アンジェラ・バルザックは電脳パーソナリティゆえに、肉体を持つことの良し悪しを感じたことがない。
疲れを感じたこともないし、味覚の変化もあまり感じてこなかった。
だから一睡もしなかったことで過労で倒れたり、飲食物に興味を示そうともしなかった。
肉体を持った事で得た五感がそのまま全て新鮮な体験となっているのだ。
電脳という存在は肉体の枷から解き放たれた存在であり、一見して便利には見えるが、それ故に人間性は希薄になってしまった事が伺える。
実際、当初はガチガチのディーヴァ第一主義であり、成果を出すことでメモリ容量=褒美を貰う事に何の疑問も持っておらず、台詞の節々からも肉体を持つ地球人や地球の環境を見下している事も伺えたが、ディンゴやフロンティア・セッターとの触れ合いを通じて考え方が軟化していき、最終的にはディーヴァと対立する道を選んだ。

ディンゴはディーヴァ側のエージェントではあるが、地球の環境に不満を持たず、ギターを弾き語るなど地球の文化をこよなく愛しており地球の生物の様子も知っている、その一方でディーヴァに疑念を抱いていることが劇中からも伺える。

フロンティア・セッターは地球人によって作られた命であり、その身体は人間ではない。
しかし長い時を生きたことで音楽といった文化など人間社会に対しての知識と情緒などを多く会得し、見た目こそ機械だがその心はもはや、立派な地球人ではと言えるまでになっている。

ジャンゴや大勢の地球側のモブたちを見るに、全体的に地球に住む人々はバイタリティに溢れた存在として描かれている。
先ほどアンジェラの項でも述べた通り、むしろディーヴァに住む電脳パーソナリティ達の方が人間らしさを失ってしまったのではないのだろうか?と見ていてそう思わずにはいられないのだ。

ディーヴァの環境は一見楽園に見えるが実際は管理による統制社会だ。
外敵や内部の犯罪に対してシステム保安要員と呼ばれる警察組織が動き、その働きに応じて褒美が貰える。
それゆえかトラブルが起ころうとも瞬く間に解決し、表面的には平和な生活を謳歌できるなど、ユートピアとディストピアは表裏一体である事を表してもいる。
保安要員を含めたディーヴァの住人たちはこの事に対して愚問を抱いていない(というよりは疑問を抱く描写が描かれていないと言った方が正しいか。尺の都合もあるかもしれないが…)

こうしたディーヴァという大きなファクターや本作の世界観、並びにテーマ性はディンゴのこの台詞に集約されていると思っている。

「正しいか間違いかは別にどうでもいい。ただ俺は嘘だけは見過ごせない。ディーヴァに行けば人間はより自由になれる、なんて戯言だけはな。
 ここ地上だって食い扶持を稼がなきゃ飢えて死ぬ。それは生きることに真面目に向き合わなかった奴の当然の末路だ。
   だが、何の落ち度もなくても病気になるしケガもする。まぁ理不尽に思えるかもしれないが、幸運か不運かは結局それに尽きる人生だ。
   だけどな、事がディーヴァとなると事情が全く違ってくる。何を手に入れ何ができるのか、すべてが社会とやらの都合で決められる。いつも誰かの顔色を窺って、褒められたり、気に入られたりしてないと、満足に生きていくことすりゃできやしない。そんな人生のどこに自由がある。
   あんたたちは肉体の枷からは解放できたかもしれないが、より厄介な牢屋に閉じ込められているんじゃないか? 人が作った『社会』という檻に。
 俺は誰かに値段を付けられ裁かれながら生きていくのはまっぴらだ。奴隷になってまで楽園で暮らしたいとは思わない」

どことなく現実の現代社会に対する皮肉も混ざっているように感じられる。
コロナの影響で洒落にならないゴタゴタやコロナ関係なくネット間のトラブルが多く飛び交う今の世の中だからこそ、より重く響き渡る。自分はそう感じられた。
肉体を持ちながら理不尽な目に遭うリスクを背負いつつ歌などの文化に触れ、たとえ一時でも享楽を楽しむ人生と、管理された社会で他人の目を常に意識しながら楽をする人生。
果たしてどちらが人間らしい幸せと言えるのだろうか?
また、ディーヴァ保安局高官の面々は神々の像のアバターを取っており、その姿からは神様気取りの悪趣味さが目立つ。
ディーヴァという楽園にとってはまさに神なのだろうし、こうした部分もディーヴァの実態を物語っていると言えなくもない。

本作のラストでアンジェラはフロンティア・セッターの同行を断り、ジャンゴと共に地球を旅する道を選ぶ。
劇中でアンジェラが言うように、彼女自身は広い地球と地球に住まう人間たち、地球の文化などをあまり知らず直接見た事も無い。
人間でありながら人間の事を知らないのだ。
「人間性の希薄な人間」と「人間に近い機械」が織りなす物語、ディーヴァー電脳という楽園から追放された代わりにアンジェラは人間らしさを得た。
これが本作のあらすじだと思う。

個人的に虚淵玄の作品の多くは良くも悪くも人間の感情を多くかつ激しくドロッドロに描く傾向が強いと感じており、この作品もまた人間の感情を多く描いている。
ただ、他の作品の場合は怒りや絶望といったネガティブ寄りなものや絶望からの反抗から生じる奮起などカタルシスを感じる感情などを特に多く描いていたのだが、この作品は(そういった面も全く無いわけでは無いものの)それらとは一線を画するものとなっている。
食や音楽など娯楽に触れたこと、肉体の疲労など生きていく上で感じていくささやかな感情を特に多く描いていてポジティブさに溢れているのだ。
この辺りは『翠星のガルガンティア』でも見られた傾向でもあるし、実際内容も似通っているところがある。

エンドロールではエンディングテーマが流れる中で新たな地へと旅立つフロンティアセッターとアンジェラたち、変わることのないディーヴァ保安局によるディストピアといった描写が挟まれ、ささやかな希望と寂しげな余韻を残しつつ幕を閉じるという、虚淵玄の作品で特に共通して見られる内容だ。
だが、これまで書いてきたように作品全体の空気は他の作品と比べて非常に明るく希望が大きく描かれている(一種のらしくなさすらもある)王道な物語となっている。
「虚淵玄の作品はダークで人が多く死ぬからちょっと…」と思っている人にこそ見て欲しく、同時にSF作品が好きな人、人と機械の触れ合いが好きな人にも勧めたい、そんな良質な人間賛歌の物語だ。

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