ジョン・クーガー・メリルキャンプ 「スモール・タウン」

【番外編】ジョン(クーガー)メリルキャンプ
ある方のFB投稿へのコメントが長く、しかも勝手に論を展開しはじめてしまったので、失礼にあたると思い、記述をこちらにいたしました。

カントリーが日本でなかなか受け入れられない。それは日本には演歌というものがあるから。米国・日本それぞれ土着の、心情に染みついた感覚をこの二つの領域の音楽が人心をとらえていて、相入れないからだろう。

我々が知ってるつもりの米国は、東海岸の洗練されたNY、西海岸のヒスパニックに占拠されるも居心地のいいLA、スタバの本社がありイチローが活躍したシアトルなんかだろう。大都市でも失業者あふれるシカゴや、ブルース・ライブハウス通りのメンフィスなんかは、すぐさまイメージされないだろう。

それよりももっとディープな田舎町に生を受け、閉塞感の中で育ち、そこから出ることなく生涯を終える人がこの国には相当数いる。その鬱屈した心情を陽気に読み込んでいくのがカントリーで、それにパワーを持たせてメッセージを送ってくるのがジョン・クーガーだろう。

彼は「国家」(*注)を読み込むブルース・スプリングスティーンとは異なり、身辺を歌い込んでくれるという代弁者と言う位置づけではないか。そのメンタリティは、「土着のもの」であるがため、日本に住む者としてはなかなか共感しにくい。このため彼の知名度が日本では上がらないものと思われる。

カントリー・ミュージックって米国の農村、あるいは地方都市では、我々が計り知れないほどの人気を博している。2017年10月、ラスベガスで開催されていたカントリー音楽祭で、乱射事件があったというショッキングなニュース映像で、映し出されたライブ聴衆者の数は2万人以上。事件のインパクトも大事だが、カントリー音楽祭に子供も含め、これだけの人数が集客されることの意味あいに、もっと注目されるべきではなかろうか。

*注: ブルース・スプリングスティーンが表現する「国家」とは、国家主義としての「nationalism」と言うより、愛国心としての「patriotism」色が濃いと感じる。

主にお笑いと音楽に関する、一回読み切りのコラム形式になります。時々いけばな作品も説明付きで掲載していくつもりです。気楽に訪ね、お読みいただければ幸いです。