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「お気持ちフェミ」になりたくない ~フェミニストの「女嫌い」~

前書き

もゆ「お久しぶりです!!もゆです!!」

せな「お久しぶりです、せなですー!」

もゆ
「今回は、元々フェミニストとしてレッテル貼りされることが嫌だった私が、フェミニストと呼ばれてもいいや!!と思い始めた経緯を書いてきました。まあ要は、私の一人語り回、です。
もしかすると、私と似たような思考を持っている人や、どこかで同じジレンマと戦っている人もいるかもしれない。そういった人たちにほんの少しでも勇気を与えられたら...、なんて大それたことを思いながら書きました。」

もゆ「今回は、せなには完全に聞き役に回ってもらって、『男女平等は目指したいけれどお気持ちフェミと一緒にされたくない...』と思っているあなたに届け!!!って感じで!いこうかなと!」

せな「そうだね、僕はじゃあ、最後にコメントだけさせてもらおうかな。」

もゆ「ありがとう笑 逆に言えば、ミソジニーを拗らせた方々に向けて書いてはいないので、その点は悪しからず...」


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「お気持ちフェミ」とは

 「お気持ちフェミ」(多くは「お気持ち」と略される)という言葉がある。フェミニストに対して、「感情的に怒ればいいってもんじゃねぇ」、と批判する際に使われるネットスラングだ。例としては、「お気持ちに任せて感情的に怒らずに理論的に訴えろよ」「(宇崎ちゃんやラブライブの件に関して怒っているツイート等に対して)お気持ちでイチャモンつけて、表現の自由を奪おうとするな」といった具合で使われている。
  
 「お気持ちフェミ」という語を使う人たちの気持ちも分からなくはないので、長らく私は、感情的にだけはならないよう気を付けて発言していた。なんなら感情的な言葉だけで非論理的にしか話せないフェミニストの人を、心のどこかで軽蔑していた。あんなふうにはならないぞ、と思い、「私もお気持ちフェミは嫌いですよ!論理的に話せない人なんてフェミニズムの邪魔でしかないと思ってます!」というような立場を取っていた。とにかく、お気持ちフェミだとレッテルを貼られることを極度に恐れ、自分は違うんだ、ミソジニーは嫌いだけどお気持ちフェミはもっと嫌いだ...、と思うようにしていた。

お気持ちフェミニストの烙印が押されるのが怖かった

 だから私は、自分のことをフェミニストだと思いたくなかったし、心無い他人から「フェミ」「フェミニスト」と呼ばれることを恐れていた。他人から勝手にフェミニスト呼ばわりされた時の、なんとも言えない、揶揄が含まれるような感じに薄々気づいていたからかもしれない。反フェミニストを掲げる人たちが「お気持ちフェミ」、と誰かのことを揶揄するときも、誰かのことを「フェミ」と決めつけて呼ぶときも、人をバカにしているという点では大差ないよな、と今では思う。
 そしてある日、「お気持ちフェミニスト」という言葉は存在しても「お気持ちミソジニスト」という言葉は聞いたことがない、という性の非対称性に気づいてしまった。それを契機に、「フェミニストと呼ばれるのを恐れる必要なんてないんじゃないか」と思うようになっていった。
「お気持ちミソジニスト」という言葉は存在しない
 試しにGoogle検索してみると、「お気持ちフェミ」で200万件、「お気持ちフェミニスト」で128万件の関連するヒットがあったのに対し、「お気持ちミソジニスト」で検索したら何も出てこなかった(注1)。男女関係なく、非論理的なことを言う人はいるはずなのに、なぜ感情的に怒るフェミニストだけが「お気持ち」だと揶揄されて、感情的にカウンターしている(敢えてこの言葉を使うが)ミソジニストたちには名前がつかないのか。

 この言葉を自分でいうのは本当に苦しいけれど、「男は論理的、女は感情的」という昔からあるステレオタイプが原因なんだろうなと思う。残念ながら、この見方には科学的な根拠はないわけだけれど、それでも「女は感情的で非論理的だ」と信じて疑わない人からすれば、女性が必要があって怒っていても「ほら、また女はそうやってすぐヒステリックになる」という言葉が出てくるわけだ。反対に、男の人が非論理的にヒステリックに怒っていることに対し、「この人は非論理的なことをいう人だな」と思うことはあっても、「また男はそうやってすぐヒステリックになる」なんて言葉は出てこない。このステレオタイプの色眼鏡で見てしまえば、感情的に怒る男の存在は無かったことにされてしまう。だから感情的に女性の権利を主張する声には簡単に名前がついて、反対のものには名前がつかないんじゃないのか?
 
 そこまでくれば簡単だった。まだ名前がつけられてないだけで、「お気持ちミソジニスト」だってこの世の中にはたくさんいるというのに、「お気持ちフェミニストという烙印を押されたくないから」という理由でフェミニストだと呼ばれることを恐れるなんて、全くばからしいなと思うようになった。

感情的になることの何がいけないのか?

 そもそも、だ。議論の場において、感情的にならないことが望ましいという主張は正しいのか?感情的にならざるを得なかった理由は?(もちろん、感情的になることで相手を萎縮させてしまったり、精神的な苦痛を与えることは好ましくないと思う)感情的になるのは、自分の尊厳や人権に関わる、つまり、自分の生に大きく関わる問題だからだ、という可能性もある。過去に冷静に話し合おうとして全く聞き入れてもらえなかった経験から感情的に訴える手段を取っているという可能性もある。その問題が解決されないと身体的、又は精神的に生きていけない、ということもあるかもしれない。もしその場で議論されている内容が、ある人にとっては人間的に生きるうえで決定的な重要な問題だったとすれば、感情的になるのも当たり前のことだろう。
 「客観的で論理的であること」と「主観的で感情的であること」は、真逆のこととして捉えられることが多いが、果たして本当にそうなのか?論理的、客観的というのはたくさんの主観の集合体によってできあがっている。従来、その「主観」の中に女性が含まれてこなかったから今の男女不平等な世界ができあがっているとすれば...? のっぴきならないほど不快であると主張することの何がいけないのか?
 1年ほど前、宇崎ちゃんや秋葉原の看板についてTwitter上で話題にされていたとき、「主観で物を語るな」というリプをたくさん見たし、受けたりもした。
 最近でいえばアフターピルの問題がTwitter上では盛んに話されているが、「怖くて生でのセックスを断れない場合もある」というツイートに対して「想像で物を語るな」というようなクソリプがついているのを見てしまった。私はこれを見て、「結局、主観や想像で語ることが問題ではないんだな」と思った。どんな現実的なシチュエーションを提示したって、クソリプをする人たちは「それはあなたの想像でしょ、現実の話をしろよ」って言うんだ。

 私の主観が客観的な論理の中に一切組み込まれていない、この現状を嘆いて何が悪いのだろう?
お気持ちフェミと言われることはもう怖くない
 こうして考えてみると、怒って何かを話しているフェミニストに対して「それはお前の主観だろ。これだからお気持ちフェミは」というようなカウンターは、正確にはきちんとしたカウンターになっていない場合が 殆どだとわかってくる。
 女性蔑視主義者に「感情的だ」と議論をやめさせられそうになっても、何も怖がることはない。だって、感情的なことをダメなことだと非難される謂れはないんだから。

 だからもう、変に怖がったりせず、男女平等が達成されるまでは自分のことをフェミニストだということにしておこう。

最後に

自分のことをフェミニストと呼べない人、呼びたくないと思っている人へ。無理して呼ぼうとする必要はない。けど、もし理由が私と同じような理由だったら。怒るべきことには怒っていいし、世間体(?)を気にして、友達が離れることを気にして、非難されないために自分をフェミニストじゃないことにする必要はないと思う。

注1)「お気持ちミソジニスト」で検索しても一応2万件のヒットはあるが、「お気持ちフェミスト」の反対の言葉として「お気持ちミソジニスト」という言葉を使っている例は見つけられなかった。
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もゆ「読んでみてどう思った?」

せな「そうだね。フェミニストって自分を名乗れないのには様々な理由があると思う。もちろん、もゆとほぼ同じ理由で悩んだ人も多いと思う。だからこそ、もゆの話を通じて、自分が自分をどう呼ぼうが/名乗ろうが自由なのに、その時の選択肢が他者によって奪われてるのが現状の一番の問題の一つだと思った。他人が自分を勝手にカテゴライズしたり、レッテル貼りをしてくる暴力によって、名乗りの自己決定権が奪われてきたのが本当に問題で…。自分自身をなんと呼びたいか、自分がなんと呼ばれたいか、それを選択する権利のために自分も闘いたいと思ったし、なにができるかを今も考えてる。ひとまず当事者の側に立つことが出発点だと思うけど。男性も自分をフェミニストって名乗っていいんだし、もっと、この問題をより深く考えていきたい。」

もゆ「ほんとにね、勝手にカテゴライズするのって、仮に良い意味のつもりで言ってたとしても相手を傷つける場合もあるわけだし(例えば外国人の親を持つ人に対して「ハーフなの?かっこいいね!」って言ってしまう等)、ただでさえ気を付けなければならないことなのに...もっとみんなで考えられたらいいよね。」


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