見出し画像

イコールであって、イコールではない

記事を書くときはまず内容から入り、タイトルで頭を悩ますことが多いのだが、この記事は何故かぱっとこのタイトルが、大袈裟に表現すると天啓のように脳裏に浮かんだ。

名前の由来は、「色々考えるのめんどいからTwitterと同じでいいだろう」という、なんとも単純な理由。

‹ やよい›というアカウント名も、誕生月にちなんでいる(ちなみに本名も三文字。よくよく”3“という数字に縁があるらしい)。

上記の流れを経て、名前を決め、noteをゆるゆるはじめたわけだけど。

去年の終わり or 今年初めか、「noteでの名前を変えたい」と、強烈な欲求におそわれた。

それはもう唐突に、何の前触れもなく。

海に向かって突き出した崖の縁ぎりぎりにいるような、自分でも何故これほど?と首をひねりたくなるほどの。

さて変えるとしてどういったものにしようかと考え、ふっと脳裏をかすめたのが、今の名前。

この根拠もこれまた我がことながら不明。響きの美しさ、そして葉の青々とした色彩がイメージとして、自分の中に突然降ってきた。

でもぜんぶ平仮名だと味気ない(?)、変換してみてこれかな?というものにした。

それが今の名前である。

*                                      *                                 *    

自分のどこかで、このふたつをイコールで結びたくないという思いがあるのかもしれない。

同一人物であることは揺るぎない事実なのに、Twitterでの自分と、noteでの自分は別個の存在なのだと、線引きをしたいという欲。

壁をつくるまでは至らないとしても、向こう側が薄ら透けて見えるような、たとえるなら几帳をおいたり、御簾を垂らしておきたい(イメージはなぜか和風)。

ひとの気配が何がしか感じられて、誰かいるの?とそっと窺ってみて、なんだ自分か、という風な。

…お前は何を言ってるんだ??と自分に問いかけたくなるほど、何を言いたいのかおぼろで、何ともふわふわとした感覚がもどかしい。

仕事をしている自分も、本をはじめ趣味を楽しんでいる自分も、同じ直線上にいるのに、リアルと仮想の狭間にあるtwitterやnoteとは、やんわりと距離をおいておきたい。

書けば書くほど支離滅裂になっていく気がしてならないので、ここまでにしておこう。

                   

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?