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『推し、燃ゆ』読んだ

本当に久々に本を読んだ。推しがいる者として『推し、燃ゆ』を読まない選択肢はなかった。たかが本を読むだけのことですら、推しが原動力になっているのも情けない。


オタクの数だけ「推し方」があると、常々思っている。推し方が合わないオタクとはいくら同じ人・グループが好きでも仲良くはなれないし、仲良いオタクも全てが同じかと言われると微妙に違う。

『推し、燃ゆ』の主人公を見ていると「さすがにこうはならんだろうな」と思うのに、根本の考え方が割と似ているのがものすごく興味深かった。そして、それが少し怖くもあった。


気付いたら推しのいる人生を十数年送ってきてしまった者として(号泣)、せっかくなので感想を残しておきたい。


※ここからガンガンネタバレするので知りたくない人は戻りましょう⚠️





『推し、燃ゆ』の最大のインパクトは何と言っても書き出しだと思う。

推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。まだ詳細は何ひとつわかっていない。何ひとつわかっていないにもかかわらず、それは一晩で急速に炎上した。

いきなり豪速球で投げられる絶望感。帯には二文目までしか書かれていないが、三、四文目が絶望感を引き立たせている。炎上する時は何にもわからないくせに、ガンガンに燃えるのだ。いろんな憶測や溜まっていた恨み辛みが爆発して、直接関係ないことまで燃えまくる。信じたくないというファンの擁護の声が上がって、それまで燃えて……。

結局殴った割には大した処分もなく過ぎるのだが、絶望から始まったこの小説は、私の感想としては最後まで絶望で終わる。しかも絶望が重ねてやってくる。リアルなファンの声も、推しのどうしようもない行動も、ずっと救いようがない(私はかねてから、アイドル界における公式のタレント人気投票と個人SNSは不要と思っているので、それ絡みが激シブだった)。とにかく、自分がこいつのことを推してたらキレるか呆れるかすると思う。少なくとも小説を読んでた私は、思わずため息をついていた。


が、主人公はそうじゃない。ブチギレたり呆れたりはせずに、嘘みたいな現実をちょっとずつ受け入れていっているように見えるのに、生活がどんどんダメになっていく。学校もバイトも辞め、就活もろくにしない。深い海にゆっくりと溺れていくような、生き地獄の中にいる。

燃えたからといって、簡単にオタクを辞められるわけじゃない。主人公にとって推しは「生きる意味」であり、「背骨」であり、「病めるときもすこやかなるときも推す」ものであり、どんなに燃えていても「これからも推し続けることだけが決まって」いる存在なのだ。


先に書いたように、アイドルの推し方は本当にいろいろとある。とにかく認知されたい人、同じ推しのファンとは断固仲良くなれない人、何十枚もCDを買う人、定価以上のお金を出しても現場に行きたい人、本気で恋愛対象と捉えている人、…。

主人公はというと、高校生ながら何十枚もCDを買い、現場もできる限り行くけれど、同じ推しのファンとも仲良くなれるし、推しと繋がりたいとは思わない。一定の距離感を保ちながら、推しのあらゆる言動を自分なりに解釈しようとするタイプのオタクだ。ここで面白いのは、主人公はあくまでも推しが「アイドル」であることを、分かっている。


アイドルとは元々「偶像」という意味を持つ。神仏を人の手で像にしたり、絵に書いたりしたもので、崇拝の対象となるもののことだ。私は高校生の時(多分)に授業でこの語源を知り、胸にストンと落ちた感じがして「あー。私が見ているアイドルは、あくまでも虚像なんだな」と思った。

私に見えている、かつ見てもいいところはあくまでも虚像の範囲であって、本質はどうだっていいし、ああだこうだ言う権利もないと思っている。だからなるべく繋がりたくないし(とか言ってるけどこれは自ら繋がりにいかないだけで、なんかの間違いで出会っちゃったら余裕で受け入れる。ちょろい)、現実世界で恋愛しててもいいし、というスタンスでオタクを続けている。

『推し、燃ゆ』には、推しと繋がれる喜びから地下アイドルにはまり、プチ整形をした結果、推しに気に入られ何回かデートまでする主人公の友人が登場する。決してそうなりたいとは思わない主人公との対比が絶妙に面白い。


主人公はそんな冷静さを持っているはずなのに、最後に自ら現実と虚像の境界線を彷徨い、そしてもう一度絶望に出会う(この絶望感がまじでやばいので読んでほしい)。その後の文章がこれだ。

もう追えない。アイドルでなくなった彼をいつまでも見て、解釈し続けることはできない。推しは人になった。

ここが一番グッときた。アイドルを辞めたら、推しはただの人になる。

多分だけど、主人公は生活はボロボロになりつつも、このままアイドルだった推しを見続けて生きると思う。どんなに絶望したとしても、絶望の対象は「人」だった面であって、アイドルである推しは好きなままなのだ。


去年、私の推しにもちょっとだけボヤが発生した。恋愛まわりの本当か嘘かも分からないほどの話だったけど、絶対違うとも言い切れず、界隈はまあまあ荒れた。

その時の私はというと、恋愛してようがしてまいが別になんでもよかったのだけど、推しを叩く人も擁護する人も不快だった。だからSNSと距離を置き、推しの好きな動画をひたすら再生した。結局、推しにまつわる不都合な話には、推しのアイドル姿を見ることが一番の処方箋だった。


さっき「自分がこいつのことを推してたらキレるか呆れるかすると思う」と書いた。もし自分の推しも同じように燃えたとしたら、キレるだろうし呆れるだろうけど、それでもアイドルだった頃の映像をずっと見返してしまうような気がした。いっそ丸ごと嫌いになれればいいのに、そういうわけじゃないのが厄介で、嫌いで、でも好きだ。さすがに生活が全部ダメになることはないだろうけど、根本が共感できたことに少し怖さも感じた。

生活全部がダメになることはない。そう思うのは私の場合、推しは生きる糧ではあっても生きる意味ではなく、背骨ではないからだ。確かに推しを享受するために働いてはいるけれど、 推しのためには生きていない。自分が精神衛生を保って生きていくためだ。どんなに推しのことが好きだったとしても、推しのために生きるのではなく、自分が生きるための推しであることは忘れたくないなと思う。



…というわけで、ここまでが11日に書いた内容で、ここからは12日になってからの追記。

Juice=Juiceの高木紗友希さんが熱愛報道を機に脱退した。11日の記事で、12日に脱退。こんなに即座に決まるもんなのかと正直驚いた。


ハロプロには恋愛禁止の契約が(多分)ある。私は恋愛していいよ派なので、まじでそんなもん今すぐ無くしたれというのが本音だ。さゆきはハロでも一番を争うほど歌が上手かったし、色気もめっちゃあってかっこよかったし、こんな実力者が卒業コンサートもせずにいなくなるのは、やるせない。とはいえ契約を破ってのことだから仕方ないか…と私は思っている。

今回アイドルの熱愛報道としてはちょっと特殊で、私がやるせなさを感じたのと同じようなオタクが多く、彼女は案外燃えなかった。ただそのコメントをよく見るとちらほら「恋愛禁止のルールがあってもさゆきは例外でしょ」みたいなのがあって、これが心底気持ち悪いと思った。多分だけど、彼女ほどの実力者じゃなかったら、燃えていたと思う。だからこそその擁護っぽいコメントが気持ち悪かった。そしてやっぱり、不都合の処方箋にJuice=Juiceの曲を聴いた。

今回は実力も相まって「形を変えても歌ってくれればそれでいい」という意見が非常に多い。確かに私も今日にでもデビューしてくれと思いはするのだが、じゃあこれからもさゆきの歌を聴き続けるかと聞かれると…、そうとも言い切れない。結局私は「ともこ!るるちゃん!はーーーさゆき!!じゅーす強い!!」の興奮が好きだった。Juice=Juiceの高木紗友希が好きなオタクだったんだよな。


『推し、燃ゆ』の感想も、さゆきの一件での感想も、結局は推し方に紐付くもので人それぞれなんだと思っている。推しがいる人には『推し、燃ゆ』読んでどこに共感したか聞きたいし、推しがいない人にも感想を聞いてみたい。何せ私は推しがいる者としてしかこの本を読めないので…。

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