時の贈り物
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時の贈り物

微花

六年前の春の今日、花と本とを贈り合うサンジョルディの日という祝祭日にちなんで、花の本を、と創刊したものが、ほかでもない微花だった。それから季節ごとに刊行を重ねて、一時休刊、そうして、一昨年の春の今日、創刊号を装幀あらたに写真絵本として刊行しなおした際、末尾に書き足した文章を読み返すと ——

「どの鳥が鳴いたかで季節がわかる。ことに春は、鳥がおしえてくれる。と何気ない会話に聞いたことが、とうていおなじ世界の話だと思えなかったのは、花になずむ千にちも前のことだったか。多かれ少かれ花を知って、おのずから花に季節をよめば、それは遠い世界のことではない、むしろ近いだろうとかんじた。それを花鳥風月というのだと、どこかで聞いた言葉がこだまする。本当だとすればこの道は、かつで誰もが歩いた道であろうか。歩いているように思っていた道に、呼ばれていたということもあるだろうか。」
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このとき、私にとって、植物はたしかにあらゆることのきっかけではあったけれど、だからといってこれは植物の本ではない、それだけではない、という思いがあった。
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そうしてまた、雑誌から絵本へと至ったいきさつには、Instagramを機に知ることとなった雑誌 「母の友」の存在がなくてはならなかったのだが、先日その編集の方から、つぎの本が届いた。

「草木鳥鳥文様 」

"くさきとりどりもんよう"と読むその本は、ひと頃「#母の友 」の巻頭に連載されていた「作家 梨木香歩さんが野鳥と草花のエッセイを綴り、画家 ユカワアツコさんがアンティークの引き出しにその絵を描き、写真家 長島有里枝さんがその引き出しを街に連れ出し、撮影をした。言葉、絵、写真の三重奏」で、この春函入りクロス装で単行本化されたものである。
母の友が刊行されるたびにかかさず読んでいた連載であったが、月間という時の流れの中にある雑誌の一部として読むのと、たしかな装幀によって一冊の本にまとまったものをあらためて読むのとでは、感触がこうも違うかと打たれた。

また読みながら、これは時の祝福というか、出されるべき時に出された時の必然を思わずにはいられなかった。本という、それ自体、時を超えて残るものに、安易にいまこの時を絡めたくないということもあるのだが、昨年、微花の刊行記念として土地土地に赴いた「絵本的」の、東京は本屋B&Bにて「母の友」さんと鼎談したときのことをふいに思い出したのだった。以下はそのときのことをnoteに記したものの一部である。

""壇上にあがった途端に緊張が回って、自分の話したことはほとんど覚えていないのだが、そのお終いに母の友さんから、「いやあ、本当に、子どもができると、近くのコンビニさえ遠く感じますよね。それは確かに辛いことでもあるんですけど、遠くに行けない分、これまであまり見えていなかった身近なところ、花とか、鳥に、自然と目が行くんですよね。」と、大阪から遥々やって来てくれた僕の親友家族へ、共感を示すように話し掛けるその光景は、どれだけ僕を打っただろう。
そうしてまた、この言葉によってこそ、病院や保育園などへ微花が届いていくだろうという予感が、確信へと変わったのだった。つまり微花は、ともすれば「足元の世界に目を向けましょう」というわかりやすいメッセージに流れやすい。間違いでもないが、本当はそうではなく、思えば自分も、あるとき精神的にかなり追い詰められたその先で、はじめて植物に目ざめたのだった。意志でもなければ趣味でもなく、それはもうどうしようもない仕方で、自然と身近に目が行く。追い詰められたその場所に、花は咲いている。そこが微花の場所なのではないか。""

そうしてこの一年、子育てにかぎらず、ただどうしようもなく、自然と足元の世界を見つめることになった人は多かったのではないだろうか。そのような只中で続けられてきた連載が、こうして一冊の本になったということ。
これは時の贈り物だと思う。

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微花
目ざましいものではなくてかすかなものを 他をしのぐものではなくて他がこぼすものを あらしめるもの またあらしめようと目ざすこころみです