マイフェイバリットフーズ/食でたどる70年第34回「偉人伝」

私は4人兄弟の末っ子として生まれた。女・男・女・男ときれいに男女別になっている。しかも年齢的には5歳刻みになっており、一番上と私では15歳も違う。両親は戦中に神戸で結婚、戦争が激しくなり、食料不足になったため、父親の出身地である淡路島に子ども二人を連れて一家を挙げて疎開、そのまま淡路島に住み着くことになった。したがって下の姉と私は淡路島生れの淡路島育ちだ。
父親とすれば淡路島に帰り、実家の援助を受けられるかもしれないと考えたようだが、戦後の農地解放もあり、実家も苦しくわが家の経済状態も厳しかった。戦後何年かして父親は小学校教員の免許を取り、地元の学校に勤めた。その結果、最低限の暮らしのメドは立ったが「裕福」というには程遠かった。
時々、両親は夫婦げんかしていたが、決まって理由はお金だった。当時は外で働く男が給料のなかから、生活費を渡すのが一般的。そのため子どもの学校のことで、急にお金が必要になると、黙って父親な財布からお金を抜いてしまうこともあった。そんな時は決まって言い争いが始まるのが苦痛だった。
そのような状態だから、戦後始まった新制高校に行くようなゆとりはなく、上の姉は中学校を出ると、当然のことのように神戸の病院に看護助手として就職していった。それが昭和28年のこと。私が生まれたのは、その前年の昭和27年11月であり、上の姉と私は4か月ほどしか一緒に暮らしていなかったことになる。

姉との思い出で残るのは送られてきた本の事

したがって、私と上の姉とのかかわりは、姉弟というにはやや他人行儀なものだった。一緒に暮らした時間が少ないからそれも当然で、休みに帰省するのを待ち望むようなこともなかった。両親にすれば、高校へも行かせてやらず働かせてしまったため、罪の意識があり、誕生日に病院で親しくしている同僚も一緒に帰省してもらい、誕生会を催したりしたが、私は取り立てて姉に甘えるでもなかった。
母が西宮の出身で、小さい頃から神戸に連れて行ってもらったりしていたので、小学校4年生の時、一人で姉を訪ねて神戸へ行ったこともある。そのころになると、さすがに年齢の離れた姉弟であり、可愛がってくれていることは分かっていたので、半分母親に甘えるような気分もあった。
しかし、不思議なのだが、こうして姉が勤めている病院の寮に泊めてもらい、休みにはどこかに連れて行ってもらったり、神戸でしか食べられないものを食べさせてもらったはずだが、そうした記憶がほとんどない。私が好きだからというので「バナナ」を買って置いてくれていたりしたが、これも姉とバナナという特別な関係ではない。
その意味で上の姉の存在と切り離せないのが、月に一度姉から送られてくる「本」だ。田舎のことなので幼稚園はなかったが、私の学年からお寺の本堂横の空き部屋を借りて幼稚園が開園した。そこで手をつないで遊んでいて、友達が手を放してしまい、お寺の敷居に頭をぶつけ、額を切ってしまった。その後遺症かどうか因果関係は明確でないが、小学校に入ってしばらくすると、癲癇の症状が出るようになったため、神戸の病院を受診、年に2回ほど脳波を取り、薬による治療が始まった。担当の医師からは、激しい運動は控えるように指示され、学校の体育も当面は見学ということになった。
そんなこともあり、放課後も低学年の頃は、ほとんど外で遊ぶことはなかったので、本好きの子どもにならざるを得なかった。父親は小学校で教員をしていても、家に子どもの本などそれほどない。だから上の姉から月1回送られてくる本の待ちどうしかったこと。たまたま送ってもらった野口英世の伝記が面白くて、ああいった感じの本がいいといったものだから、姉からは内外を問わず、いわゆる偉人伝が毎月届き、いつしかそれを待ちわびる少年になっていった。

26歳で見合い・結婚

15歳で神戸の病院で看護助手になり、やがて准看護婦(当時は看護婦はほぼ女性の職業のため、看護婦が正式名称だった)の資格を取って、同じ病院に勤めた。この時代は、試験に受かると「戴帽式」が栄誉の儀式としてあり、姉もその写真をもって帰省、家族全員でお祝いしたものだ。
しかし、上の姉は准看護婦から正看護婦にスキルアップし、やがて婦長になって、命を守る仕事に打ち込みたいという意識はなかったようだ。逆に60年前の日本では、結婚して子どもを産み、立派に育てることが人生であり、今のようなキャリアウーマンとして生きるコースは、ごく少数派に過ぎなかった。「オールドミス」「いかず後家」など、今考えると、とんでもない言葉がごく普通に飛び交っていた。
そんな時代背景もあり、姉も働き始めて10年もすると、真剣に結婚を考え始めた。そのタイミングで洲本市の漁港で、網元だった家の次男坊との見合いが持ち上がった。網元は長男が継いでおり、見合いの相手は会社に勤めていた。嫁に来てくれれば、実家の隣に戸建ての住宅を新築してあげようという、かなり条件のいい話だった。その話に、25歳といえば当時は、そろそろ行き遅れになりそうな年齢の上の姉は乗り気になった。洲本の高校に通っていた兄と下の姉は、見合い相手とその家は「あまりいい評判はない」と聞いていたし、両親も資産をハナに掛けるところが気になっていたようだが、上の姉本人は「私もいい年齢だから」と家族の心配を押し切って結婚に突き進んだ。そういう事情は当時小学5年でまだ子どもだった私は知る由もなかった。
後日、下の姉から聞いたところによると、上の姉は交際していた人がいたらしい。外科の担当看護婦だった姉は、事件・事故の関係ですぐ近くにあった警察署の警官と知り合い付き合い始めたようだが、母親に大反対されて泣く泣く、別れたこともあった。なぜ母親が、それほど反対したかは不明だが、警察官では将来性がないということだったかもしれない。そんなことも、親が進める結婚なら反対もないだろうということで結婚を急いだ要因だったのかもしれない。

桜で有名の料亭で結婚式を挙げる

前年の秋に見合いした上の姉は、トントン拍子に話が進み、翌年の春結婚ということになった。その当時は結納金にプラスして、箪笥に着物や洋服などの嫁入り道具を詰めて結婚するのが普通だった。両親にすれば、家の犠牲になって早くから働きに出てもらったという負い目もあり、精いっぱいの道具を持たせて嫁に出したようだ。
結婚式は婚家の主導で、洲本では格式の高い料亭で行われた。ここは桜の名木のある庭園が有名で、長年続く網元の家柄である婚家としては、桜の季節にここを手配したことも自慢であった。しかし、当日天気はあいにくの雨で、肌寒い気温とも相まって、庭の桜も華やかさに欠け、どこかうら寂しい結婚式となってしまった。私はその時小学6年生だった。
その後の両家の関係はしっくりしなかった。結婚式の後、新居のお披露目を兼ねて私の家族は招待され、食事を振る舞われたが、いささか盛り上がりに欠ける宴となった。婚家とすれば、家を新築するにあたって、どんなにいい木を使ったか、建具もあれこれこだわったと自慢するばかりで、これからフレンドリーな親戚づきあいをしましょうといった雰囲気はなかった。
二人の結婚生活が始まってから、私は姉に呼ばれ、泊りがけで遊びに行ったこともある。しかし、結婚相手はそれほどくだけた性格の人でもなく、一緒にいて楽しい人ではなかったので、あまりなじめず、いつしか足は遠のいた。それは他の家族も同じで、両家の関係は深まらなかった。
そして突然,事態は急転最後を迎える。私は中学の部活で野外コートでバスケットの練習をしていたら、担任の教師がかけてきて、お姉さんが県病に入院したから、すぐ帰宅して病院に行くようにと伝えてくれた。事情が分からないまま病院へ行と、姉は睡眠薬を服薬してこんこんと眠り続けていた。
結婚して4年、婚家も結婚相手も子どもを望み、姉もそれなりの努力を続けてきたが、子宝を授かることはなかった。夫婦二人の間のことは他者には伺いしれないが、形の上では子どもが出来ぬことを苦にした「自死」だった。みづから望んだ結婚から4年、齢29歳の最後だった。前日夜、主人の帰宅前に空腹のまま睡眠薬を大量に服んだ覚悟の自死だった。


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