マイフェイバリットフーズ/食でたどる70年第21回「魚骨スープ」

私は4人兄弟の末っ子として生まれた。みな5歳刻みで生れているので、うえ二人は、昭和12年と同17年と戦前生まれだ。うえ二人は神戸で生れ、した二人は戦争でUターン疎開した淡路島の生れだ。旧制中学を卒業後つてをたどり神戸で就職した。肉屋といっても、小売だけではなく、大型商船などに食材を卸していたため、商売としては規模が大きかった。
しかし、大型船次々に軍に接収されてしまうと、父親の仕事はなくなり、まだかろうじて食料のある出身地に引き上げざるを得なかったのだ。ただ、終戦前、終戦後は暮らしぶりは厳しかった。住まいは本家の隠居が使っていた家が空いていたので、そこを使わせてもらったが、定まった仕事はなく、収入はあまりなかった。
後日聞いたところによると、空いていた場所を畑にしてサツマイモ、ジャガイモ、葉物野菜などを育てる一方、鶏小屋を手作りして玉子を生ませたり、アンゴラウサギを飼って「毛」を売って僅かな現金収入を得たりと、まさに爪に火を点すような生活だったらしい。したがって、戦後数年してから父親が教員免許を取り、地元の小学校に職を得てから、何とか生活は安定したようだ。

兄弟は次々に親元を離れる

私が生まれた昭和27年の翌年には、一番上の姉は中学校を卒業し、神戸の病院に看護助手として就職、看護婦を目指すことになった。結局、4人兄弟とは言え、4人が揃っていたのはわずか1年だけだった。
その5年後の昭和33年には、今度は兄が高校進学を機に、淡路島一番の街である洲本で下宿生活をはじめ、家族は4人になってしまった。おそらく、上の姉にしてみれば高校へ行きたいと思っていただろうし、兄にしてみれば、機械科の工業高校ではなく、普通科に行き、できれば大学へも行きたいと考えていたはずだ。
そうした思いは、経済的事情が許さなかったことは言うまでもない。上の姉は准看護婦の資格を取って、神戸の病院に勤めていたし、兄は高校を卒業後、板紙会社に就職、ボイラー技師として働き始めた。

飽食ではない豊かな食を楽しむ

こんな状態だから、親としては十分なことがしてやれなかったという思いは強く、上の姉も兄も誕生日などには帰ってきて、その時できる最高の御馳走を用意していた。末っ子の私は、ちゃっかりご相伴にあずかっていた。尾頭付きの鯛の焼き物が家族分ある、巻きずしもある、刺身もあり目移りして仕方なかった。
そんなごちそうもうれしかったが、兄の誕生日に彼がリクエストした「アイ」の焼き魚は美味しかった。私の出身地では「アイ」といっていたが、正式には「アイゴ」といい、広辞苑では「藍子」という文字を当てている。「アイゴ」は、アマモを主食にして大きくなるため、内臓がおいしいといわれている。
かつて徳島県や、その対岸の淡路島沿岸には多くの藻場があり、アイゴもたくさん獲れた。ところが、埋め立てなどにより、藻場が徐々に少なくなるにつれて、アイゴの漁獲も減少した。つまり、兄の「アイ」を食べたいというのは、一種の「ノスタルジア」だったのだ。
しかし、母親が苦労して手に入れた「アイ」の塩焼きはえもいえぬ味だった。昔はあんなに簡単に手に入ったのにという感慨もあったが、家族みんな大満足だった。その時、何を思ったのか兄が「お母ちゃんお湯湧いてる」と声をかけ、お湯を自分の皿の「アイ」の骨にかけて飲み始めた。
最近、忘れていたが昔よくやった「魚骨のスープ」だ。かなり上手に食べているが醤油に実は残っていないが、アツアツのお湯をかけると骨からだしが出て、それが残っている醤油と混ざって味わい豊かなスープになる。ことに「アイ」の魚骨スープは美味しい。そんなことを思い出させる一夜でもあった。


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