マイフェイバリットフーズ/食でたどる70年第33回「アジの酢の物」

私の田舎は淡路島の南西端で、すぐ目の前に鳴門海峡が見える海沿いの村だった。人口はせいぜい500人ほど。半農半漁の小さな村で、地名の由来は「網長浦」だったことからもわかるが、長い砂浜のある地形だった。このように、集落に住む人の生業は漁師か農家という中で、わが家は父親が小学校の教員だった関係もあり、日々の暮らしは、そのような生業とは無縁なところにあった。友達の家の田んぼで田植えを手伝うことはあっても、遊びの延長のようなもの。
家が漁師の場合は、割と小さい頃から小魚をさばいたりすることを覚えることが多かった。しかし、私の場合は釣りに行って釣りあげたあじやさばを、触る程度で、それを磯でナイフを使って器用にさばくことは、したこともなかった。普段の食事に魚が出ることは多かったが、その処理は当然親まかせであり、自分は食べるだけだった。

マグロ中心の東京の刺身になじめず

魚をさばくことはできないが、魚についてはそれなりに口が肥えていた私が、大学進学に合わせて上京したのは、19歳の春のこと。最初の1年は賄い付きの下宿だったので、魚といっても時々塩鮭が出てくるくらいで、生魚にはほとんど縁がなかった。2年目からは、アパートを借りて一人住まいになったが、最初は台所も狭く魚を調理することなどなかった。
刺身が出てくるのは、学生御用達の安い居酒屋で、誰かが刺身の盛り合わせを頼んだ時ぐらい。しかし、マグロの赤身主体の刺身はとてもではないが口に合わなかった。そもそも私の出身地である瀬戸内海では、私が育った時代は、まだコールドチェーン流通がほとんど整っておらず、マグロを食べる機会はほとんどなかったので、東京でマグロが出てきても食指は動かなかった。
ただ、働き始めてお金が自由になると、飲みに行く店のレベルも上がり、出てくる料理の素材もアップする。マグロも中トロになると、ぐっと味わいが上がるし、白身魚も東京には有名漁場のものが入ってきているので、お金さえ出せば、美味しいものは食べられるので、上京したばかりの頃のような拒否感はなくなった。それどころか、サバなどは瀬戸内では、あまりおいしいものは揚がらないので、相模灘のサバの握りなども堪能するようになった。

鬼平に感化されてアジを酢で締めてみた

しかし、結婚してからも家で食べる魚は、あまりレベルが上がらなかった。その理由は食費に使えるお金が限られるということに尽きる。子どもが出来て、そこそこ大きくなると手巻き寿司がよく食卓に登場するようになったが、その時は鮮魚にこだわるよりは、魚以外の変わりネタを探すことに力が注がれた。
東京での暮らしで魚料理で、唯一こだわったのが「アジの酢の物」だ。これは30代の頃、池波正太郎の「鬼平犯科帳」や「剣客商売」の影響といえるかもしれない。これらのなかで主人公は、いろいろ工夫して美味しく飲み食いしている。自分もなにかできるのではないかと思ったのだ。
アジはごくごく普通の中くらいの物、スーパーで2尾300円程度で売っている物を買ってきて、中骨を取って2枚におろし、ゼイゴを取ったうえで、たっぷりの米酢にひたひたにして漬け込む。15分もすると表面が白くなってくる。そうなると身が閉まってきて、お酢から引き上げ、皮も取り食べやすい大きさに切る。あとはキュウリとアジに、刻んだ大葉を合わせて三杯酢をかければ出来上がり。すだちがあれば、すだち酢にすれば風味が増す。
アジはもともと脂の乗った魚だが、酢で締めれば脂分が少し流れてさっぱりと食べられる。夏の暑い一日の夕方、暑さを我慢しながらアジをさばき、ガラスの器に盛りつけたアジの酢の物と、よく冷えた辛口の日本酒を合わせると大成功だった。

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