真・物語「淡路島紀行」 第1回「国生み神話の真実」

私は淡路島に生まれ育ち18年後上京、いま東京暮らしが50年以上になる。最近、思い立って淡路島のことを調べてみたら、考古学の新しい事実が出現しており、刺激に満ちていることを知った。しかし、これまで見えないものが見えてきても、日本の歴史はヤマト的なものを中心にした方が、すわりがいいようだ。それは淡路島の歴史についてもいえる。これから何回かにわたって、エビデンスはなく、見えないところは想像を交えつつ、新たな淡路島の物語をくみ上げてみたいと思う。

国生み神話はなかった。
淡路島といえば「国生み神話」というぐらいに、あの話は行き渡っている。島の行政組織や観光協会も、国生みの枠内に入ることで、誇りを感じている。「男はつらいよ」の寅さんでも「島の始まりは淡路島」として出てくる。
しかし、政治的には藤原不比等が中心となって、編纂事業が推進された「古事記」「日本書記」の国生み神話は、大和政権が日本列島に、先住していた人たちの暮らしを、自分たちに都合よく剽窃し、国生みという別の物語にしたものと、最近言われるようになってきた。
具体的には、イザナギンノミコトとイザナミノミコトが交わって生まれたのが、まず淡路島、津井で四国(松山)、隠岐の島、九州(博多)、壱岐の島,対馬、佐渡島、そして大和を中心とした畿内が産み落とされ,大八島が成立する。これは考えようによれば、日本列島に強大な政権が生まれる前に、各地で活動していた海人族の交易路という見方もできる。
縄文・弥生時代の日本列島の人口は、多く見積もっても200万人程ではないかとと推定されている。それだけの人数だ、道具もほとんどない時代に、道普請で道路網を整備なんてできない。逆に海の道は、船さえあれば、淡路島から瀬戸内海を通って高松、松山、出雲、隠岐、博多、対馬へと簡単につながる。
例えば、南あわじ市松から、2015年に7個の銅鐸が発見されたが、そのうちの何個かには、出雲で出土する銅鐸と同じ金属組成があり、交易等のつながりによって淡路島へ持ち込まれたものと考えられる。また、このうちの3個には、当時儀式で使ったのか、銅鐸を鳴らすための「舌」がある。
つまり、最初は丸木舟のような原始的な舟で、海岸沿いを行き来し、やがてそれが日本列島全体をカバーするような、交易路へと進化していったのではないか。当時のそうした生活の道を、大和政権の知恵者は自分たちの「創世神話」に取り込み「国生みに昇華して行ったのだ。
取り上げた物語が、淡路島の海人族のものだったのは、大和政権の人たちにとって淡路島は距離的に近く、親和性が高かったからだ。淡路島は古代から大和政権の御食つ国として、海産物や塩を献上するなど関係が深かった。
しかも、淡路島にはイザナギ、イザナミの二神を祀る社があり、国生み神話を構成するうえで、登場人物にすることで、リアリティを持たせることが出来ると考えられたのだ。

国生み神話は二重の脅迫構造を持つ
こうして生まれた大和政権の創世神話は「古事記」「日本書記」に少し形を変えて採録されることになった。しかし、神話の原型になった国生み話は、当時の人にとっては身近な話だった。そこで大和政権の権力者は、神話を維持する「脅し」の構造を二重にはめ込んだのだ。
それはイザナミノミコトが、火の神を生んで命を落とす以降のダ。イザナミは黄泉の国へ行ってしまったため、イザナギは彼女を黄泉の国へ助けに行く。そして、いろいろいきさつがあって、イザナギはうじ虫がたかり、雷神に取りつかれたイザナミを見て、黄泉の国を逃げ出す。
これは古事記や日本書記によって、国生み神話を読んだ当時の知識人に対して、下敷きになっているのが海人族の交易生活だとばらせば、お前も「黄泉の国」に送るぞという脅しではなかったか。それだけ,大化の改新を経て生まれた大和政権は、個人では対抗できない強大な権力を有していたということだろう。

神の世界でもイザナギ神を圧迫
この大和政権の優位性は、神の世界貫徹されている。国生み神話の通りであれば、イザナギノミコトとアマテラスオオミカミ(天照大神)は、親子の関係であり、大和政権が危機に瀕したときには、御神託を伊弉諾神宮に要請することがあってもよかったはずだが、一度としてなく,常に伊勢神宮が最高神として君臨した。
また、淡路島内の位置関係でも、大和政権はイザナギ抑え込みの手を打っている。伊弉諾神宮は、淡路島のやや北寄りの西浦近くに鎮座している。それに対して、大和政権は島の北端に近い東浦に、伊勢久留麻神社を置く。この社は淡路国三の宮の位置づけだが、祭神はオオヒルメムチノミコトであり、これは天照大神のというのが通説だ。
つまり、大和政権は淡路国一宮の座と「神宮」という名こそ、地方神の伊弉諾神宮に譲っているが、最初に日の、東浦の地を占拠して伊勢久留麻神社を置くことで、太陽神までを支配しようとしているのだ。そうなれば、伊弉諾神宮は入日を送るしかなく、日陰の存在になり下がるしかなかった。

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