マイフェイバリットフーズ/食でたどる70年第29回「父のシチュー」

父親が亡くなってから、間もなく42年になる。年末に子どもが生まれて、その子を見せようと思って帰省した当日、肝臓がんで亡くなった。入院していた病院が徳島だったので、朝10時過ぎに徳島の松茂空港に着くYS-11を取っていたのだが、迎えの人間に開口一番「ダメだった!」と告げられた。73歳だった。
それほどくわしく聞いたわけではないが、父親の人生は功罪相半ばするようだ。生れた家は淡路島の西南端の山林地主の分家だった。江戸時代に海草の「あらめ」をで瀬戸内海沿岸に卸して回り、合わせて各地の名産品を次の地で販売して財を築いた。また、幕末に蜂須賀藩が、藩士の移動に船を必要としたとき、商売に使っていた船を提供し、その代わりに淡路島の山林の所有権を取得、名主ではないが、有力な家になっていった。
そんな家に生まれた私の祖母は、総領娘だったために、嫁にだすのはかわいそうだということで、対岸の撫養から婿を取り分家した。父はその家の4人兄弟の次男として誕生した。長男は少し年齢が離れていたので、一緒に遊ぶことはなかったが、下3人は年齢が近く3人揃って遊んでいると「修めて弘めて小夜うなら」とよくからかわれたと、楽しそうにからかわれた。
しかし、分家をしたはいいけれど、それほど十分に資産を持たせてもらったわけでもなかったので、かなり生活は苦しかったようだ。父は何とか旧制撫養中学(現鳴門高校)を卒業したが、5年制なので17歳から働き始めることになる。

淡路島への帰郷―教員時代

それが神戸の精肉店だ。最初他に勤めていて、転職したのかどうか詳しく聞いていないのでわからない。ただそこで、親戚の娘と結婚し、神戸で姉と兄を生んだことは確かだ。少なくとも昭和12年には長女が誕生している。精肉店といっても神戸のことなので、父は外国航路の厨房への肉を中心にした食材卸をしていたようだ。ある意味でかなりのボリュームの商いをしていたようだ。
それが戦局の悪化とともに、卸す食材はない、制海権をアメリカに奪われて、日本の船が動かないという状態になる。つまり仕事がないのだ。そこで、神戸の街も空襲が激しくなったこともあり、父は母とともに子ども二人を連れて故郷の淡路島に帰ることになる。
しかし、帰っても最初は仕事もなく、かといって田んぼや畑がたくさんあるわけではないから、食べる事さえ大変だったらしい。そのため、ニワトリを飼って玉子を取ったり、アンゴラウサギの毛を売って現金収入を得ようとしたりしたようだが、いずれにしても焼け石に水の状態だったようだ。
ようやく小学校の教員の職を得て、少し暮らしは安定することになるが、それは終戦から5年近くたってから。ただ、当時の小学校教員の給料は微々たるもので、なおかつ昔のことで父が自分のこずかいを抜いてから、生活費を渡すだけなので、母はいつも暮らしのやりくりに苦労していた。それでも教員時代は月々の給料と賞与があるから、少ないなりに安定はしていた。
それが昭和40年、父は教員をやめ養豚を始めた。その理由は当時教員は勤続20年か25年で恩給がつくような制度だったが、父の場合勤めはじめたのが遅かったため、定年まで勤めても年数が足りなかった。そこで、まだ体力があるうちに養豚業に転身したのだ。もちろん、それだけではなく、日本人の食生活がもっともっと洋風化し肉食が増えるはずという読みもあっただろう。

養豚業からの撤退

しかし、父が養豚を始めた頃から養豚農家の規模の拡大が本格化し、最終的には企業経営に行きつく。そうなれば個人経営に父のような規模ではとても太刀打ちできない。結局、父は53歳から63歳まで養豚業を続けたが、あえなく撤退することになる。その時私は高校を卒業して、予備校に通い始めた時だ。子ども私以外は社会人になっていたが私の大学の費用などは、母が料理旅館で働いて捻出してくれることになった。
数年前から母はそこで働いていたので、食事は父が簡単なものを用意してくれた。たいてい漁師の近所の人、たくさん獲れたからといって、太刀魚を一匹分けてくれたり、畑帰りに知り合いが野菜を置いて行ってくれたりして、なんとなく父の料理を食べていた。
そんなある日のこと。高校3年の7月、私は差別教育反対から始まった学校改革闘争は、定期テストボイコットにまで発展、私はその首謀者の一人として試験ボイコットの先頭に立っていた。しかし、その反動から激しい胃痛になり、病院に駆け込んだ。そこが父が長年かかっていた病院だったことから、すぐ話が伝わったようだ。
その時でてきたのが、タマネギをとろとろに煮こんだベシャメルソースの鶏肉のシチューだった。それまで和食中心でシチューなど出てきたことはなかったが、おそらく戦前に外国航路に食材を卸していた時、シェフに聞いていたのだろう。十分に食材も鍋もない中で出てきたベシャメルシチューは優しい味わいだった。神経性の胃炎は治ることはなかったが。

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