日本酒取材ノート第4回 日本酒の革新を目指した大関の蹉跌

「恋をするなら命懸け、酒は大関こころいき」。これは最初、昭和36年に田宮次郎、昭和45年に加藤登紀子がカバーした「大関」のコマーシャルソングの一節だ。今やこれを知るのもかなりの高齢の人だけになってしまった。年度は前後するが、同社は1964年に、ワンカップ大関、1978年に「一級はこの酒」を発売するなど勢いがあった。冒頭のフレーズも、多くの人が口ずさむほどに影響力があった。
しかし、その勢いは長くは続かなかった。確かにワンカップ日本酒は、革新的な商品であり、旅行の時や長距離通勤の帰り道に1本、2本飲んで帰るといった新しい飲用シーンは開発したが、日本酒の飲用シーンとしては脇役に過ぎず、主役とはなりえなかった。また、現在日本酒の主力となっているパック日本酒については,「はこのさけ」というカテゴリーの名称でお茶を濁しているうちに、競合メーカーが「まる」とか「つき」という名前でブランド化を進めていった。そこで大関は飲用シーン提案の「のものも」でブランド化を図ったが、先行メーカーの後塵を拝し、それでも品揃えを図るとすれば、競合品よりも安く販売できる条件を出さねばならず、先行ブランドを追い抜ことははできなかった。
さらに大関では1980年代の後半に「大坂屋長兵衛」「辛丹波」の4合瓶商品を相次いで市場投入したが、まだ4合瓶市場が成長途上だったこともあり、このカテゴリーの主導権をとるには至らなかった。

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