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自分を愛する

自分の心が動揺するとき
アイデンティティの部分に踏み込まれたと感じるとき

それは自分を見つめ直すきっかけになる

私は 自分が思っていたよりも ずっと 音楽とともに生きていたのだということを思い出した

それと、勉強が全然足りないながらも、古くからの聖人の教えが 思っていたよりもずっと自分の心の支えとなっていたことも知った
いや、小さい頃から ひそかに大事にしていたことも 改めて思い出したのだ

これまでの数十年間
ある人の言葉に悲しみや憤りを覚えたのは 音楽に携わる人たちへの心ない言葉であることがしばしばあった

音楽活動をきちんとしていたわけではないし、宗教的なことの勉強も部分的にかじっている程度だから 人に「音楽が好きだ」とか、ましてや「聖人の言葉、あるいは精神世界の本を読んでいる」と言ったことはない。大袈裟だけど、「隠れキリシタンみたいだ」と思いながら暮らしてきた。いや、ほんと大袈裟だけど。

ここしばらく、そういった部分を急に他者から暴力的に暴かれるんじゃないかという気持ちですごした。いや、誰もそんなことしない。そもそも私がなにか隠してるなんて思っていないから。でも、小さい頃、自分の信じていることをふと話して 人に笑われた経験があるから 間違っても 自分のそういう核の部分は表に出さずに 元気で活動的な人というイメージだけで生きてきた。それが、急に そういうものを叩きのめす言葉が アカウントを閉じたTwitterに続き、ここでも時々表示されるようになって ちょっと参ってしまった。ここではミュートがうまくできなくて、見ないようにしたつもりの記事が目に入ったりして 何度かぎょっとしてしまった。

目に見えるもの、現代日本の社会で一般的に目にするものだけでは この世界は成立しないですよ。目に見えないものを、ないがしろにし過ぎだってば、、、って思う。西洋の価値観だけで日本社会が動いてるわけがない。テレビや、マジョリティの意見も大事だけど、だからといって それ以外のものを否定していいことにはならんのですよ。
(ハイヤーセルフの存在って、その言葉自体知らんでも、その存在を感じることは可能なはずで、そういうもんに実は 何度となく助けられてるはずなんよ。言葉だけとらえて 怖いって言うんは もったいない。もちろん他者に教えてもらったまんま受け取るんは場合によってはリスキーなんで よーく自分なりに考える必要はある)

そんなことを強く思う。

だから、せめて これからの自分は 変わり者である自分を大事にすることにする。誰かに自分の感覚を理解してもらおうとは思わない。仲間は見つからなくてもいい。今までも いなかったんだから。でも、自分の生き方は そういうマイノリティなところを せめて家にいる間だけでも あるいは 自分の内側では ちゃんと認めよう。そう、自分がおかしいんじゃないかと思わないこと。
自分とは違う考え方の人もいるし、自分みたいな人もいる、と。

誰かに評価してもらおうと、無理しなければ、誰かに強要しなければいいのだ。

いずれ「帰っていく」とき 自分を痛めつけるものこそ まっさきに手放していたいじゃないか。

帰ろう
私から手放そう
これからどう生きよう

そろそろ 再び 会いに行く
藤井風のライブに行く
会場の人たちと
優しさを 分かち合いに行くことができる

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