見出し画像

奪われない自分でいるとは

全体を生きている私たちの間で、奪う奪われるは成立しないと書いたことがあるけれど、現実的にはそうじゃないことがあるじゃないか、と考えられるかもしれない。

「奪う」人は、確実に存在するし、自分軸がぶれていたり、他者との境界線が有耶無耶になっているときなんて、相手の世界と一体化して、いつのまにか相手に提供する毎日になってしまうことになるのだ。

奪う人からは、絶対に離れなければならない。

一時期、他人に対して、「私の時間を返して」って半ば本気で思っていたところがあった。自分が相手との関わりを選んだと分かっていても、やはり奪われた部分もあると思っていた。
後になって思えば、だが、私は、時間こそ、その相手に費やしたが、強がりでも何でもなく、どう考えても失ってはいない。少なくとも、私という人間の核心は。ただ、とにかく疲弊した。もう少しで、立ち上がれなくなってしまったかもしれない、という状態になってしまうところだった。

確実に、何かを失ったのは、「奪おうとする側」の人たち。

その人たちの、現在の心境などはこちらの知ったことではないが、失ったものがあるのは分かる。「奪おうとする」生き方をする人は、相手を巧みに選んで、そういう振る舞いをしているということが少なくない。必要に応じて、相手を変えたり、あるいはその人から吸いとれなくなると、別の人を探す。そうやって、奪い続けていく。自分が、心から相手のためを思って与えることは、あまりない。その報いかどうかはわからないが、どこかで「奪うことに成功しなくなっていく」のだ。それが、「奪う人」にとって、それとわかる喪失として現れてくる、視えてくるということ。寂しさだったり、不安だったり、焦りとして。

私は、以前は、そういう人から「奪われる」ことに甘んじていたわけで、「いつも自分は都合よく利用されてしまうのだ」と思って、半ばあきらめるようなところもあったが、ある時、そうではない生き方が可能だと知った。

一つは、奪われる自分という意識を手放したと言うこと。そうなるまでに時間はかかったけれど。奪われると思ってると、知らず知らずのうちに差し出してしまうのだ。そして、そういう時、無意識のうちに、自分の意識が相手の領域に入り込んでしまっている。奪われたらどうしようという恐れを抱いていることそのものが、すでに相手の領域下にあることを意味するのだ。

そして、二つめ。自分に集中できるようになった、他者からの評価の価値が相対的に下がったということ。自分で自分を満たすことができるようになったということ。
他人の目が気になると言うことは、上にも書いたけど、他者の領域にすり寄って行ってしまって、自らを相手に差し出すことになってしまう。

要は自分の領域を確立させるということだと思う。そういう人から奪うことは容易ではない。

さて、奪おうとする人からは、いずれいろいろなものが離れていく。

奪おうとする人の方は、自らの欠如を埋めるべく、他者から奪うが、奪う相手との関係は長く続かない。相手が離れて行くか、相手が奪われ尽くして参ってしまって、奪うものがなくなるか。だから、常に奪う相手を探して生きていかねばならない。寂しさを抱えて。

奪う人と分かち合えるものは ない。
奪う人は、ずっと 欠如で生きているのだ。一時的に親切な振る舞いを見せてくれても、それは奪うプロセスだ。


とにかく、奪う人からは、極力離れること。
あるいは、どうしても近くにいる状態を免れないなら、その人より圧倒的な力を身につけること。
方法は、いろいろある。
あたたかい飲み物やごはん、あたたかい布団、規則正しい生活、な
自分の大好きな習慣。

力尽きる前に、動けなくなってしまう前に、少し「この人はちょっとおかしい。奪う人かも」と思った時から、自分の生活をしっかり確立させるといい。


自分の存在を消すような方向は望ましくない。
どんどん生命力が落ちる。
自分を生かして、自分を全力で守ろう。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?