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【宝石】期待した方が悪い、という自己責任論なんて知らない

最後に追記あり、です。

自己責任っていう言葉は、凶器だと思う。特にそれを「愛」を介在した関係で持ち出す愚かさを私は、もはや憎みさえしている。

一時期、ある人に、全てを賞賛され尽くした挙句に、全否定されたというアップダウンの激しい経験をした。
何をしても、何を言っても、惚れ込まれるという気持ち悪い日々が続き、「そろそろお金でも無心されるか?」と思ったほど。というのは嘘だが、いつもならこういう手の話には乗らない私がなぜかその人に惹かれ始めた時、「あなたは、あなたらしく、あなたのしたいようにしていてほしい」と、謎のメッセージと共に、相手にされなくなってしまった。

その人は、ただ誰かを賞賛していたいだけで、人と人の関わりは望んでいなかったということだ。双方の想いのずれは、時に悲劇を生む。相手を魅力的に感じた私の思いは、行き場をなくし、しかも、相手の嘲笑の対象にまで成り下がった。

私の一時期の思いは、私の人生の中では「愛情」と呼べるものだったって確信してる。
私は、自分の内面を変革する勢いで、生きた。相手の生き様も、全て、それをそれとして受容できた。今でも、その人の存在自体は全肯定していると思う。

でも、相手が、「ただひとりでいたい」と思い、それに最上の価値を感じている人だった。自分の知性だけを信じる人だった。徹底的に個人主義だった。時に、一瞬生まれる心の通い合い、という刹那的なもの以外は必要としない人だった。「所詮」「そんなもんさ」が口癖のような。継続なんていらない。唯一、自己の価値を上げるものは受け入れた。
そんな彼が、我が道をいく私を、一瞬、同志のように感じたのかもしれない、と今なら思う。

ところが、私は、人との繋がりの中に生まれるものにこそ、生きる喜びを見出すことを望んでいる人間だった。刹那が連なって、流れを作ることが創造につながると思っているような、そういう関わり合いを望む私は、彼に疎んじられた。

あなたが勝手にこちらに期待しただけだ、
あなたが勝手に私にいろいろ与えてきた、
うっかりもらい過ぎた
もういらない
そう知らされた

その後、責任を負わされた気分になった私の前で、他の人に親切に振る舞い、刹那的な笑顔のやりとりを見せながら、私の言葉を斬り捨てる冷酷な表情は、
私の心を打ちのめしたいのかなと思わせ、憎しみさえ感じた。

ほんとうはひとりになるのがこわいって素直に言やぁいいのに。でも、自分でもそんな思いに気づいていないんだろう。
人はつながりの中で、失敗し、悲しみ、喜びを知るんだと、私は思っている。
他者を受け入れる「ふり」なんて、「ふり」でしかなくて、相手を「こんな人だ」と定義するほど愚かなことはないと思っている。

少しでも、私と関わろうとした、少し正直に自分の弱さを曝け出した、あの短い間のあなたは、真に美しかった。ネガティヴな思いだろうが、弱気な姿だろうが、相手との気配の重なりを許す、在り方こそが、私にとって価値を感じさせる。それはあなたが善とする個人主義とは真逆のものかもしれない。

私は、他者との関わりから生まれる自己の変容こそ、強い光を放ち、その時、自己の魂を、自己にとっての宝石とすることができるのだと思う。

私が彼との関わりを望み、時に恥をかいたことは 自己の選択として受け止めている。
だが、それを自己責任としてバサッと切った、あなたの振る舞いは、普段強がっているあなたの弱さそのものだろう。だからこそ、あなたは私の顔色を窺い続けるのだ。

自分と向き合ってみたらいい。
怖いことは怖いと認めたら、そこから次に進めるのだ。

[追記]
私の変化を感じとって、それが怖れにつながったことも知っている。それこそ、「重さ」でしかなかったのだろうから。生き方が違う、ということ。
私は、変化し続けていたいだけだ。

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