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【読書ノート】川上弘美『恋ははかない、あるいは、プールの底のステーキ』(講談社)

 主人公である八色朝見は、幼少期をアメリカで過ごした小説家だ。60代になった今も、アメリカ時代の幼馴染であるカズやアンとは親交がある。

 物語は2020年から2023年にかけての日本を舞台に、朝見とカズやアン、そしてその周辺の人物との交流を中心に淡々と進んでいく。 

 朝見たちは自らの老いを自覚しながらも、死はもっと先のことだろうと感じているようだ。そして、まだ恋愛から卒業や引退をしたわけではない。

 無論、10代や20代の頃のようにギラギラしたものはなくなっているから、気持ちのうえでは30代の延長上にいる、といったかんじなのかもしれない。

 こうした感覚は、同世代の一人として理解することできる。


 物語のなかで、主人公たちの身の上に何か大きな事件が起きるわけではない。また、互いに好意を抱いているであろう朝見とカズの距離が縮まるわけでもない。

 世相として描かれるコロナ禍やウクライナとロシアの戦闘に比べて、物語はあくまでも淡々と進んでいく。

 だが、登場人物たちの他愛もない会話に共感をしたり、小さな驚きを感じたりしながら読み進めていくことには、ホテルのラウンジで流れるBGMを聴くかのような心地よさがある(その一方で、隣のテーブルで交わされる会話を盗み聞きしているような気分にもなる)。

 ちなみに、タイトルの後半にある「プールの底のステーキ」というフレーズは、いちばん最初の章で描かれた幼少期の朝見のエピソードに由来する。

 アメリカに住んでいた子ども時代の朝見は、いくら噛み続けてもちっとも小さくならなかった硬いステーキを、こっそりプールに捨てた経験があるのだ。肉片はプールの底に沈んでいった。

 この水底に沈んだステーキが何の暗喩なのか、想像することはできても確証はない。恋愛に関係があるのかどうかも不明だ。

 だが、あれこれ考える必要はないのかもしれない。世の中には意味のわからないことなど山ほどあり、それでも人生は淡々と進んでいくのだから。

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