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まるでハリウッド映画のような“ノーベル生理学・医学賞受賞者”の半生〜

 今月2日、今年のノーベル生理学・医学賞の受賞者が発表された。受賞したのは、米国ペンシルベニア大学特任教授のカタリン・カリコさん(68)と、同じく教授のドリュー・ワイスマンさん(64)の2人である。この2人による、生き物の遺伝子の一部「メッセンジャー(m)RNA」を使った基礎研究が、ワクチンの開発に大きく寄与したことが受賞の理由だ。

 2人のうち、カリコさんは共産主義体制の東欧ハンガリーから米国に渡った研究者である。その半生は、まるでハリウッド映画のストーリーのように波瀾万丈だ。

 1955年にハンガリーで生まれた彼女は、国内の名門大学で生化学の博士号を取得し、研究者となった。しかし、その直後に大きな転機が訪れる。ハンガリー経済の行き詰まりなどから海外の学会に出席することが認められず、研究資金も途絶えてしまったのだ。既に結婚し、長女が生まれていたカリコさんは、30歳のときに米国に渡る決心をする。

 そして、自家用車を売ってつくった900英ポンドを幼い長女のぬいぐるみに隠し、片道チケットで国境を越えた。当時のハンガリーでは、外貨の持ち出し額に制限があったのだ。

 決死の覚悟で米国に渡ったカリコさんだったが、mRNAを治療に役立てようとするその研究は評価されず、研究資金も枯渇してしまう。そんな彼女を支えたのは研究室の同僚たちだった。その一人が、今回の共同受賞者であるワイスマンさんである。

 偶然に大学の研究棟にあるコピー機の前で知り合って意気投合した2人は、それから20年以上も共同研究を続けている。今回のノーベル賞につながった2005年の共著論文は、mRNAを体内に投与する際に起きる免疫反応を抑制するメカニズムを明らかにしたものだ。

 発表された当時、この論文はほとんど注目を集めなかった。しかし数年後、その成果がmRNA医薬の開発競争を進めるバイオベンチャーの目に留まると、風向きが大きく変わる。2013年にカリコさんを迎え入れたドイツのバイオ企業「ビオンテック」は、その開発競争の先頭に立ったのだ。

 さらに、同社が米製薬大手「ファイザー」と共同開発した新型コロナウイルスワクチンが、治験によって高い有効性が確認されることになる。大多数の人類にとって厄介者だった新型コロナウイルスが、彼女たちには幸運をもたらしたのだ。

 ハンガリーから米国に渡った当初、カリコさんの頭の中にワクチン開発のことがあったわけではないという。また、大学のコピー機の前で免疫学者のワイスマンさんと出会わなければ、世紀の発見は生まれていなかったかもしれない。

 こうした経験を踏まえて、カリコさんは次のように述べている。

科学は積み重ねの上に成り立っています。私たちの研究はいつ、どこで役に立つかわかりません。

 大学の研究に対して、「短期的な成果」「稼げること」を求めている人たちにとっては、耳の痛い指摘かもしれない。

 カリコさんは「基礎科学の重要性」のほかに、「科学における多様性、特に女性の存在」が大切だと説いている。
「多様な立場からの建設的な批判がより良い成果につながる」
「指導的な立場にもっと女性が増えるべきです。科学者を目指す女の子も増えてほしい。とても楽しい仕事です」
 そう語る彼女の言葉には実感がこもっている。


 幼少期に母親のカリコさんと、そして900英ポンドが隠されたぬいぐるみと一緒に米国へ渡った長女のスーザン・フランシアさんは、その後にボート競技の米国代表としてオリンピックに出場し、2連覇を果たしている。

 スーザンさんの大活躍により、これまでカリコさんは「金メダリストの母親」と呼ばれることが多かったようだ。しかし今後は、スーザンさんが「ノーベル賞受賞者の娘」と呼ばれるようになるのかもしれない。

 そのスーザンさんは、こんな言葉で母親を讃えている。

ボート競技は、チームのほとんどが後ろを向いているので、いつゴールが来るか見えません。母も同じでした。一つ一つの積み重ねが、達成したいことに近づいていると信じることが大事でした。今、振り返ると本当にその通りになったのです。やったね、お母さん。

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