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教育のイメージ

 カフェは、私の中ではゆっくりする場所であり、考え事をする場所であり、友達や家族とおしゃべりする場所である。また、デスクワークなども家よりカフェや喫茶店が捗るタイプである。仕事で遠出しても、カフェでコーヒー飲んで帰ろうかなと、Google mapで検索することがある。

 ある日遠征先でカフェに行くと、ハンドドリップから機械にかえたというお話を、店の常連さんと店員さんがしていた。業界最先端とのことで、珍しいからすごい!と思う気持ちで聞いていた。そして、よく考えると、ハンドドリップという人の手で味が変わるという特別感は無くなってしまうという複雑さもあるなと思った。
 お店に行って、「ハンドドリップ」と書いてあると特別感を感じる。最近は、家でも家族の誰かがハンドドリップでコーヒーを淹れて、今日は美味しいとか、昨日の方がうまく淹れられたとか言いながらコーヒータイムをする。美味しくないからどうとかではなく、そう言う会話が楽しかったり、どうやって淹れたら美味しくなるのかと言う幅があることで、追求する楽しさがあるなと思う。

 機械を導入するメリットは、味が一定になること、人手不足の解消、新人の教育に手間がかからない、など店側にはたくさんあるそうだ。

「教育に手間がかからない…」という話が聞こえ、教えるという事は、一般的にどう捉えられているのかなと思った。手間を取られる、面倒くさい、そう思われてるのだろうか。
 私は、教えるとは少し違うけど、伝えたり、提案したり、今より良い方へ導くことが仕事になっており、最近では小学校など教育現場に行かせていただくことも多くなった。だからこそ、教育=手間というイメージが少し寂しかった。
 人に伝える(教える)ことは、自分の経験となり、相手の反応がそのまま自分へのフィードバックとなる。その相手が、大人でも子どもでも同じだ。相手がわからないと言うことは、自分の伝え方にもう一段工夫を加えて伝える必要がある。また、相手に伝える(教える)と言うことは、自分が相手よりも深く物事を理解したり、知っているとより良いかなと思うし、一緒に悩んだり考えたりすることも、時には良いとも思う。
 また、大学院の恩師から、「教えることは学ぶこと」と教わり、教える事が学びそのものだと思う事が増えた。

 機械を導入する事で、忙しい時に対応できたり、人手不足の解消となるような気はするが、本当にそうだろうか。仕事は追求する幅があってこそ楽しい。コーヒーを淹れる=機械の操作になることで、面白みを見出せず辞める人がいたら、本末転倒となるのか…うーん。そんなことを考えつつ、少し複雑になりながら、家路についた。

 ここからは、ら余談で最近よく思うことは、永遠はないということである。当たり前だけど、良いこと、好きなもの、好きなメーカー、好きな店員さんetc, ずっとそばにあるような気になってしまう。それが無くなって初めて、昨日までの当たり前だと思っていた日々は、特別だったんだと気づかされる。
 いつも、お気に入りのメニューが削除される度に、こんな気持ちになるが、「当たり前に続くものはない」とその度に肝に銘じようと思う。

#教育
#カフェ


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