見出し画像

子どもはなぜ学校へ行かなければいけないんだろう

 子どもはなぜ学校へ行かねばならないのだろう。祖父は「芙美、中学くらい出ていないとこれからどうする」と言うが、私にはそれがわからない。自分が大人になって中年になったときのことなど考えることもできないからだ。なぜ、月曜日に自由に近くの公園へ行ったり、火曜日に教会へ行ったりしてはいけないのだろう。
 
 ママにそれを言うと「そんなこと考えたこともなかったわ。子どもは学校へ行くものだと思っていたわ」と言った。でも私は友だちとのおしゃべりが正直苦手だった。何人かで意見が合ったりするときが一番苦手だ。そんな時、大抵私はその意見と反対だったり、疑問を持ったりしたから。集団の意見というのが嫌だった。
 学校も休みがちだった。学校に来ても教室にいるのがつまらないので時々相談室へ行った。

 ママは知り合いの子で同じ不登校の男の子に私を会わせた。家でも口をきかないのだという。同じ境遇の子ども同士が話せば打ち解けるかもしれないという、母親たちの目論見がみえみえだった。でも、心を閉ざしている者同士がそうそうすぐに他の人間に心を開けるものだろうか。
 
 児童相談所へ行くと学校へ行かなくても出席日数は稼げるという。担任の先生からの助言で私は相談所へ行くことになった。相談所に行く日、喫茶店でママと一緒に担任の先生と待ち合わせた。飲み物を頼もうとしたら、担任の先生がレモンスカッシュを頼んだ。ママが後で言っていたが、先生は妊娠していたのだった。それなのに、わざわざ一緒に行って下さって申し訳なかったと思った。
 
 相談所は同じような登校拒否の子がふたりほどいた。一人は頭のちょっと足りなそうな陽気なけい子、もう一人はとてもきちんとした家庭で育ったような典子というきれいな子だった。
 陽気なけいちゃんは中年の男の先生が朝からあくびをすると「きのう、奧さんとセックスしたんだ」と何も考えず私たちに言う子だった。悪気はないらしい。
 典ちゃんは言って良いことや悪いことはちゃんと身に付いていてとてもデリケートな子にみえた。同じ境遇にいる気安さから自分の心の深い部分を私にもらしてしまうような子には見えなかった。
「お母さんは優しい?」典ちゃんに聞いてみた。
「うん、優しい」
「ママさん、好き?」
「ええ」
 ためらいなく答えるその子にでもこの子はやっぱり私と違う、と思った。ママを好きでいられるその子がまぶしく見えた。私みたいに自分の母親を愛せない子どもはやはり特別なのだろうか、やっぱりあんまりそんな子はいないだろう。
「学校って、行きたいと思う?」
「……あんまり……」
「勉強は好きなの?」
「ええ、歴史が好き」
「学校行ってないって焦る?」今度は彼女から聞いてきた。
「うん、焦る。お母さんが焦ってるから」
「うん」彼女も頷いた。この子はきっと学校の宿題なんかもちゃんとやっていってたのだろう。「一番怖いのは自分ね」後で典ちゃんがぽつんと言ったのを聞いてびっくりした。
 
 けいちゃんの方はおちゃらけて、ふざけたことを言って勉強の邪魔をしてきたり、そわそわと落ち着きがなかった。一日に何度も服を着替えたりした。そこの先生は「僕らはちゃんと教師資格持ってるんだよ」と言っていたが、特に自分たちに勉強を教えたりはしないでときどきぶらっと自習の様子を見に来るだけだった。
 時々、先生同士で卓球をして笑い合ったりして、ほんとにのんきそうだなと思った。短いミニのフレアスカートをひらひらさせながら卓球する独身の女の先生は、いかにも嫁入り前、花婿募集中といった雰囲気をちらちらさせて卓球ではなくてピンポンをしていた。
 結婚している方の女の先生は姑と暮らしているらしい。時々姑が編んだというベストを着ていたが、「こんな物作って、着ろと言われるから嫌ともいえないし」と姑の手前、しぶしぶベストを着てきているようだった。残り毛糸で編んだモチイフを繋ぎ合わせたそれはいろんな色の毛糸を繋いでいて、ベストというよりはザブトンカバーか肩掛けにした方が良さそうだった。姑と同居している嫁の苦労というわけだ。
 
 ある日、けいちゃんのことを女の先生たちが悪く言っているのが聞こえた。「あの子、汚れたパンツを押し入れの中に押し込んでいたのよ」しかも男の先生の前で笑って言っていたのを聞いて、私はここの女の先生たちが大嫌いになった。
 けいちゃんは少しおつむが弱い感じの子だったが、その分人を警戒しないで私にはいろんなことを話してくれた。
 彼女は動物が好きだった。父親にねだって保健所で拾ってきた犬をかわいがっていた。ちゃんと面倒をみるという条件で家で飼うことを許してもらったのだ。ある日、便の後片付けと餌やりを忘れていたことがあって、けいちゃんの知らない間にママ親が犬を保健所に戻してしまったのだという。もう一度保健所に行ってみると既にどこかにもらわれた後だったらしい。
 
 それからけいちゃんは子どもの目にもあんまり美形ではなかったし、動作もにぶいので学校でいじめられたらしい。顔のことを男子になんども「ブス」「近寄るな」だと言われたり、女子にも「しかと」されたり、勉強でグループ活動などするときもあからさまに除外されたらしい。体育祭で同じ競技になるとけいと一緒だと嫌だと言われるし、それでも誰かに怒ったり八つ当たりすることがない優しい子なのに。    
 
 ある日男子生徒が一緒に席を並べたくない子ランキングというのを発表してナンバーワンがけいちゃんだと声を張り上げたらしい。担任の先生はそのとき通り一遍叱っただけで、あとは見て見ぬふりでけいちゃんが保健室へ休みに行くと担任は
「なぜ教室に戻って来ないの? 学校に来てるのに他の子と一緒にしないのはずるいでしょ。他の子たちはみんないろんなことがあっても頑張っているんだよ」と言ったらしかった。
 そうするとけいちゃんが学校へ行きたがらないのでママ親という人がすごい剣幕で「先生は一体、ちゃんと指導されてますか」と担任の先生に電話を掛けてきたり、学年主任の先生にまで責任を追及して怒鳴り込んで来たりしたのだそうだ。

 それでけいちゃんが担任に聞かれていじめのことを話すといじめは一層エスカレートしたのだ。靴が隠されていたり、机の中にゴミを入れられていたり、ノートにいたずら書きされていたり、体育の服が失くなったりしたという。でも、いじめた子たちはいろんな言い逃れをしたのだろう。
 それを真に受けて生徒指導の先生はわざわざ保健室にやってきて
「みんな心配してるんだよ。担任の先生もどんなに苦しい思いをしていると思う? 大げさにとっているんじゃないの。甘えてるんじゃないよ。被害妄想もいい加減にしろよ」という風だったらしい。
 
 たぶん、ママ親が大騒ぎしたので余計そういうことになったのだろう。担任の先生はけいちゃんが登校すると「あっ、今日は来たの。今日も来ないかと思った」なんて言い方だったらしい。
 
 ママ親はいじめを察していながらけいちゃんを労わろうともせず、学校に行けとせっついて、学校に行かない子は恥ずかしい、そういう子ならうちでご飯を食べるなと言い放ったそうだ。けいちゃんは家にも学校にも居場所を無くして、でも児童相談所だったら出席日数に加算されるから積極的に児童相談所に連れられてきたのだった。

 けいちゃんから何回となく聞いた話を繋ぎ合わせて私なりに意味を持たせるとそういう話しになる。なんか、話を聞いているとこのママ親は子どもの心をちっとも汲もうとしない、世間体ばかり気にする人のような気がした。先生たちも子どもの上っ面しか見てない気がした。大人にかわいがられる対応のできる子に価値を置いて、団体の中で冴えない子を庇うこと、気に掛けること、そういう大切さが感じられない話しだと感じた。

 相談所の女の先生は私にも反省を促したいのだろう、「なぜ、あなたはここへ来たか分かる?」と聞いてきた。「ここへ来たかわかる?」という言い方には何かここは普通は来ないところなのに、というニュアンスがあるのを感じとれてしまう。私は正直にただ「考えるために来たと思います」と答えた。それが正直な答えだったからだ。すると、先生たちはまた陰で私のことを「反省もしないで、なんていう子」と陰口をきいていた。

 けいちゃんは似顔絵を描くのが好きだった。相談所の先生たちの顔をデフォルメして似顔絵を描くのがとても上手だった。お腹の出た中年の男の先生やダイコン足の若い女の先生の似顔絵をこっそり見て私たちは笑い合った。
 私たちは、けいちゃんのおしゃべりを聞き、笑い合い、時々先生に内緒でけいちゃんに勉強の答えを教えてあげて、仲良くしていた。自習時間にはカルタをやったり、ソフトボールをやったり、トランプをやったり。そんな日が過ぎ、ある日、典ちゃんがもう家へ帰るということを知った。それで私もそろそろここを出たくなり、児童相談所を卒業することにした。
 
 児童相談所を去る日、三人の誕生日を教え合って、「何歳まで生きられるかな」とみんながなんとなく言い、「私は二十歳までとても生きていないと思う」とはけいちゃんの言葉だったのでおかしくて笑った。
 そう、四十、五十になった自分自身なんか、とても想像しようもなかった。そしたら、典ちゃんが
「これからみんなの誕生日には遠い空から『誕生日おめでとう』と言うよ」とまたとっても賢いことを言った。
 
 でもママは思ったより私が早く帰ったのを知って、心から失望したらしい。
 ママの言葉はいつも私を追い詰めたいようだった。「さっきのあなたの態度は傲慢だ」とか、「今さえ良ければいいんでしょ。深い考えとてない」などと言った。
「家を出ないで。恥ずかしいから。同級生のお母さんに会って聞かれるとなんと答えたらいいかわからない」
 せめても料理でも作ろうとしておかずを作るとママは
「そんなことをするより学校へ行ってちょうだい。こんなことしてもらってもうれしくない。それより学校へ行ってちょうだい」ママの頭の中はそのことで一杯のようだった。
(この家を出たい、ママと一緒にいたくない)そういう思いで悶々とした。
 大人に心を覘かれるのは嫌だった。決めつけられるのはもっと嫌だった。
 
 その後私はママの里へ連れて行かれた。そこで一夏過ごすことになった。
 そこへ行ってそして私はとっても心の安らぎを感じた。
 お里は最寄り駅から二時間に一本しかバスが出ていないので、私は土地の人に聞いて四キロの道を歩いてたどり着いた。長い山道を一人でひたすら歩いて行って友子伯母さんの家を見つけたときにはオアシスを見つけたように清々しい気持ちだった。
 
 時間が自然の中でゆったりと流れていて、蝉の声や家の中を吹きすぎる風、そして夕方のあの切なくなるような澄んだ空気と夕陽の朱さ、畑や小川、遠くの木々のざわめき。
 伯母さんののんびりしていること、「ここ(食卓)にサイフ置いても何日経っても誰も取ってかん」米もお茶も手作りでとびっきりおいしい、お菓子といえば夏みかんくらいしかないけど、裏の湧き水ですいかを冷やし、食べたら池の鯉に皮を放り込みに行く、ゆったりとした暮らしがとっても気に入った。「あんたは勉強しすぎたのや。今までいい子すぎたのや」私のことをなんか自分流に解釈しているような伯母さんの言い方に言い訳はしないで、純朴な人だと思った。
「ずっとここにいてもいい?」
「ずっといていいよ。好きなだけいていいよ」
 ここにいれば家の煩わしさは忘れるし、なにか心がのびのびする自由を感じた。
「じろう」声を掛けながら伯母さんは茶碗の残飯を台所の土間に繋がれている犬の「じろう」にやる。風呂は伯父さんが薪で焚く。ママが昔そこでご飯を食べた囲炉裏の部屋もそのままだ。
 
 朝が来ると私はすぐ朝の空気を吸いに外に出る。まだ薄黒い山々の手前に光の差し込むまばらな人家や杉の木々が汚れのない生まれたての世界に息づいている。道ばたの雑草に溜まっている朝露の中を新しい空気を吸い込みながら歩いた。道ぞいに茂る蕗の葉はとっても大きくて雨が降っても傘代わりになりそうだ。
 夕方になると、落ちかけた夕日が向こうの木々に差し込んでくる。辺りの寂しさ。叫んでも誰も叫び帰してくれない遥かな寂しさだ。
 少しかび臭い自分の部屋でずっとぼうっとしていると、なにか幸せな世界がどこか分からないけどきっとある気がした。そしてそれはたぶん学校に行く世界にはないところにある気がした。

 私は大人たちの考えで病院の精神科というところを勧められた。私のことをもしかしたら、何か心の病だと思っているのかもしれない。少し怖い気がしたが、私もどこか違った世界を求めていたので親たちに勧められるまま行ってみた。叔母さんの家から通うことになった。
 そこで女の先生に会った。彼女は私に言った。
「長い人生の中で一年や二年、お休みしたってどうっていうこと、ないわよ、ゆっくり考える時間にしたらいい」
 
 私は学校へ行く理由が見つからないこと、母とは基本的に考えが合わないことにだんだん気づきだしたことを一通り先生には話した。先生は
「親子だって別の人間なんだから考えが違ってあたりまえよ。私だって若い時は母親と合わないと思ったことがあった。何を話しても通じないと思ったこともあったわ」と言った。
 
 でも、私の心の中の不安はこの人にはわからないだろう、ママが本当に自分を愛しているのかさえ、本気でわからなくなるときがあるのだ。貧乏でも、子どもの肩を持ってくれる母親、他の人と、けんかをしても我が子をかばおうとする世の母親、そんな光景が私はうらやましくてしょうがなかった。今のママなら、もし、私が誰かから濡れ衣を着せられたような場合でも、決して私のことを信じたりしないだろう。他人と一緒になって私を責めるに違いない。
「最近、ご飯でもおやつでもどんどん食べたくてしょうがないんです」
「そうなの」
「お腹が空いているわけでもないのに食べたいんです」
「あのね、食べ物っていうのは愛情なの。愛情が欲しいとき、食べ物を食べ過ぎたりするのよ」
 
 私がこの頃母親とうまくいってないのを聞いて知っている精神科の先生は『にんじん』という本を読ませて私に感想を聞こうとした。その本は母親が無理解で、母親と意志疎通を感じない子どもの話だ。先生はただ単に親子のすれ違い以上のものを感じているのか、なぜなら『にんじん』という本はむしろ母親の理解できないようなどちらかと言えば虐待の話だったから。先生の意図がみえみえで、自分の心が覘かれるのが嫌で「どう思った?」と聞かれても何も言わなかった。
「あなたは今、心が弱っていて、誰にも心を開けない状態なのね」登校拒否をしている今の自分が病気のように言われたような気がした。
「この間、夢を見たのを覚えているって言ってたわね。最近、また、夢は見た?」
「見ました」
「話してもらっていい?」
「大きな大きな水槽の中に赤や水色、黄色、いろんな色のきれいなピラニアがいて、私がそれを見つめている夢です」
「そう」
「一度、うちの病院泊まってみる?」
「そうですね、泊まってみてもいいです」
 私はどこでもいい、脱出場所が欲しかった。
 
 一週間だけそこにも泊まってみた。部屋には一人同室の年上の女の人がいた。優しそうで、でも寂しそうだった。「子どもを産んで置いてきたのや。なんの因果か、こんな病気になってしもうて。今まで何も悪いことはしてきてないのに。こんな病気になってしもうて。相手は待ってくれるいうけど」
 子どもの私にはよく意味がわからなかったけど、とにかく深刻な事情があるのと、この人が嘆いているのだけはわかった。精神の病気が産後の影響で出たりするのを私は大人になって知ったけれど。私は家から持ってきたりんごを一つ、黙ってその人に手渡した。

 レクレーションでみんなで体育館のようなところに行った。みんなで体操をやって休憩をしていたら、側にいるきれいな若いお姉さんが小さな声で歌を口ずさみだした。初恋の歌で、私も好きだった。耳を傾けて聞いていたら、「私、好きな人がおるんや」と誰にともなく言った。
 
 一人の若い看護婦さんと仲良く話ができた。彼女は自分たちが小さい頃、竹を縦に半分に割って家族とスキーをしたことを話してくれた。仲の良い家族の様子が伝わってくる。
 ただ、その病院にいてもやはり寂しいのは一緒だった。こんな所まで来て、知らない人たちに囲まれて寝起きするのは寂しかった。
 
 先生は話を聞いてくれているようで、結局、大事なところは自分流に、というか大人の都合で解釈する人だと感じる。私が食事を食べていないのを伝え聞いて、食堂にやってきた先生は私を見て「なんだ、食べてるじゃない」と言いおいていった。
 結局、子どもの私たちが学校へ行かない理由など、親の虐待か、学校のいじめか、不適合な本人の性格か、でも本人の性格だとすれば、はしかのようにすぐに治る、治してみせる、と思っているようだった。そんな風に本当のところ、ママと約束していたようだった。でも、私の場合は、一番の理由は本当に学校へ行く理由が純粋に見つからないからなのに。なぜ、学校に行くかがわからないからなのに。
 
 先生はだんだんと私に「学校へ行きなさい、あなたが一番しなければいけないことでしょ」とせっつくようになった。出会った頃は長い人生の中で一年や二年、お休みしたってどうっていうこと、ないわよ」とあんなに言っていたのに。あんなに私の言うことにうなづいてくれていたのに。
 叔母さんの家からも引き上げるときが近づいていた。短い夏休みはいつか終わりを告げる。病院からも遠ざかり、私はまた実家に戻らされた。
 
 朝、布団の中でいつまでもじっとしているとママが布団を剥ぎに来る。今日はどんなことがあっても行かせると意気込んで。そして必ずベッドから起こされて家から出される。
 私は学校へ行くふりをして正面玄関から出て町をぐるっと廻って裏門から家へ戻る。学校へ行ってくると言っては遠くの公園まで歩いて行ったり教会へ行ったりして時間をつぶして帰ってきて裏口から入るのだ。
 大抵は待ち構えていたママに気づかれて、ママが私の部屋に乗り込んで来る。
「やっぱり部屋に居たのね。そうじゃないかと思った」私の腕をギュッと掴んで
「どうしてなの、どうして学校へ行かないの。いつまで行かないつもり? いつになったら行くの。言いなさい」と声を上ずらせて責めてくる。ああ、これもいつものパターンだ。だからそんなママを見てると苦しいから家にいたくないんだ。
「先生が言ってたわ。登校拒否の子は過保護に育てられたんだって。これまであんたを過保護に育て過ぎたのよ。甘くしすぎたのよ。後悔してるわ」ああ、また、誰かが言った言葉の引用だ。
「このままでいいと思っているの。あんたは逃げてるだけじゃない。一体、なぜ学校へ行かないの。ちゃんと理由を言いなさい、言いなさい、理由を言いなさい」と怒涛のように追及し出したので、私はまた例によって何も考えないようにしてまだ話し続けるママの口元をただ黙って見続けていた。
 部屋を出ると洗面台の前で泣いているママの顔が見えた。

 親は親の人生を生きればよいのだ、子どもは子どもの人生を生きるしかないのだ。そう思う。
 
 学校行かないのはどうして? なぜなの、言ってみなさい、と責められても言えない、答えられないのだ。学校は勉強だけしていればいいし、なぜ行けないんだろうと大人が思ってもそれは所詮大人から見た価値観でしかない、子どもにすれば行かなくちゃと思うけどどうしても行けないのだ。
 
 今までと変わらない自分が不登校を境に突然、別の人格になってしまったように。「どうして学校行かなきゃいけないの?」と聞いても「そういうものなの」とママは決めつけるだけ。社会のレールに乗れない自分が悪いと思うし、みんながしていることができない自分にコンプレックスも感じる。なにか他の人に負い目を感じて、毎日、その葛藤で心が安らかにならなかった。外へ出ようとすれば「恥ずかしい、出ないでよ。みっともないから」と母親に言われ、気持ちの持って行き場がなくなっていた。

 中学生になって人との価値観が違っているのにだんだん気づくようになった。私は自分が感じるようなことを人も感じ、自分が怖れるようなことを人も怖れ、自分が傷つくようなことで人も傷つくのだと思っていた。人は話さなくてもいいくらい、自分の心は人に通じている、伝わっているのだと思っていた。だが、人の顔が違うように人の感じ方や価値観は全く人それぞれなのだった。それがまだよくわかっていなかった。
 話し言葉の言語、人の話す言葉の中にずるいもの、うそくさいものを人一倍感じる中学生だった。だから、人と話すのは疲れた、一人の方が気が楽だった。なぜ話し言葉というものがあるのか疑問にさえ感じた。それでいて寂しいのだ。

 ママは私に漢方薬を飲ませようとしたりした。占いのおじいさんがママの顔を見ただけで「お子さんが学校へ行きませんね」とぴたり、当てたらしい。漢方薬は占いのおじいさんにこれを飲むと良いと勧められてもらってきたらしいが、薬臭くてとっても飲めたものではなかった。それがママをまたがっかりさせたらしい。でも、だって、おいしくないんだもの。

 あんたは何を考えているのかわからない人、とママが言うが考えているというより感じているのに。
 あんたがもし結婚したら、破滅だわ、とも言う。結婚というものはそんなに難しいもの、そんなにも自分の心を隠さなければいけないものかしら。他人と他人が結婚するというのはそもそもどういうものなのだろう、自分の心を少しずつ隠し合ったり、微妙にオブラートに包んで気持ちを伝え合ったり、世の中で大切にされていることが却って怖く感じる。何かを隠し合いながら同居していくならそういう空間や人間というものに恐ろしさを感じてしまう。友だち、親子、夫婦。人間同士が距離感を保っていくということが無限に難しく怖く感じてしまう。

 私には一つ上の兄がいた。あまり成績が良くなかったからいつもママは心配していた。「あなたはもうちょっと勉強をちゃんとしなさい。すぐ誘惑に負けて」習い事をしても、部活をやっても長続きしない兄の祐介を心配していた。だが、私が登校拒否をしだしてから情勢は変わった。家の問題児は私になったのだ。ママと兄は強力なタックを組んで嫌味を言うようになった。それまでは私はママのことを世界一すばらしいママだと思って、学校の勉強もよく頑張ったし、手の掛からない良い子だったのだが。
 
 学期末が近づいてくるとママの機嫌は悪くなる。
「もう、通知表をもらう時期なのに、ママは別の用事で学校へ行かなくちゃいけない。先生に聞かれたら言い訳を考えなくちゃいけないし、小学生の頃はまさかこんなになると思わなかったのに。祐介のももらってくるから。ママ、楽しみだわ」兄は
「ごめんね。僕、体育は自信あるんだけど」
「祐介はちゃんと元気で学校へ行ってくれる。それだけでママどんなに安心か」
「二人でずっと仲良しごっこやってれば」憤慨した私の言葉に兄は
「芙美は自分のことがわかってないね。ママにどれだけ苦労かけてると思ってるの。御大層な理屈ばかり言ってひねくれて。雅江叔母さんも芙美のことでママが大変だ、かわいそうだって同情してたよ」
 ママは祐介のことを
「あの子はあんたとは違う。ちゃんとママの言うことを聞いてくれる。パパの跡を継いでちゃんとこの家をやっていってくれるよ。あの子はママの気持ちをわかってくれる。優しい子だから」と言った。なんとも大人の本音は、うんざりする。
 
 雅江叔母さんは私のママのことを「尊敬している」と言っていた。小姑から「尊敬している」と心から言われることは世間的にはすばらしいことだろう。でもそれは世間的な尺度にしか過ぎない。パパは県会議員だからいつもママは有権者の人の世話をしたり、世間の目を気にしていた。小さい頃から家にはいつも人が出入りしていた。街を歩いて見たことのある人には自分から挨拶する、いつでも人には愛想よく接するように言われている。   
 
 この家に嫁に来るときは、祖母はこの町で怖い三大姑のなかに入っていたそうな。ママの家が小さい家だと恥じて祖母はママに「あなたは体を動かすしか能がないのよ」とよく言っていた。出来の悪い義理の弟も家に同居していて、時々暴れたり、家のお金をくすねたりした。
 一度、ママは祐介がお腹にいたとき、この義弟にお腹を蹴られたことがあったらしい。祐介は、だからあんなに気の弱い意志薄弱な男の子に生まれたのかもしれない、と思ったりする。
 そんなこんなでママはかわいそうにいつもこの家のために頑張って、姑や小姑に悪く言われないよう気張ってきたのだと思う。何事も姑や舅の気持ちに合わせて、小姑たちがいつ来てもいつも嫌な顔一つせず、手料理でもてなしていたから。しょっちゅう人の出入りがある家でいつも人にお茶や手作りのお菓子をもてなして、別の叔父さんも他所の市で市会議員をやっているからわざわざ選挙の手伝いに行ったり。
 
 私はもっと友だちのママ親のようにのんびりと普通に一緒にテレビを見て笑い合って、子どもの作った料理をおいしいと言って食べてくれたり、子どもの好きなアイドルやドラマを時々一緒に楽しんで見てくれたり、買った服を見せ合ったりできるママならいいな、と思う。親戚の人の手前、私の登校拒否を恥じるママが苦手だ。ママはどこかで本家の嫁をしょっているのだろう。
 
 クラッシックバレエがやりたいなと思った。なにか体を動かしたかったし、あのバレエ独特の美しい完成されたフォームに自分自身の憧れが投影できる気がした。白鳥のように体を動かして音楽に乗ってロマンチックな別の世界へ行ってしまいたかった。ママはこの子はもう好きにさせとくしかないと思ったのか、しぶしぶバレエを習うことを承知してくれた。ただ田舎のことでクラシックバレエはなくてモダンバレエしかなかった。一度行って、そこにいる子たちがうさぎのぬいぐるみみたいのを着てひょこひょこ跳んでいるのを見てイメージがダサくてがっかりして止めた。
 ママはそらみたことかと言った。「あんたは夢を見すぎるのよ、こうなると思っていたわ」
 
 それからママは私に家庭教師をつけようと画策した。いやいや承知したが、やって来た大学生のにいちゃんは好きになれなかった。毎回三十分も遅れてきて謝りもせず平気だったし、教育学部出身だということで自分は子どもの気持ちがわかるのだと自信満々な感じで
「君はあまり思ったことをしゃべらないね。他の子たちはもっとフランクにしゃべってくれるよ」と言われて白けてしまった。それで半年我慢したがしきれなくなって断った。この時もうママはきれてしまって私を家中追いかけまわして怒った。
「次から次とあんたはママの気持ちを裏切って、なんていう子なの」
 
 私は、ある朝、手首を切った。まだ死にたくはない。でも誰かに気づいてほしい。手首を切るより心が痛いことを。ママはリストカットを知って
「ほんとに死にたいのじゃないでしょ。そんな勇気があれば学校くらい行けるでしょ」と冷ややかに言い放った。
 
 話の最後に、仕事が忙しいパパの出番は家の中ではなかったが、パパは雅江叔母さんに「ママと別のところで芙美とふたりで暮らそうかと思っている」と一度話したことがあるそうだ。まさか、あんなに家のことに無関心なパパが、そんなことを言って陰で私のことを心配していてくれたなんて。それを知ったのはパパが突然交通事故で亡くなった後だった。
   了

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?