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思いがけない成り行き (前編)

 東京は大学時代の短い青春の時を刻んだなつかしい場所だったが、またこうして訪れるようになるとは思わなかった。東京へは高槻という編集者に呼び出されて会いに行くようになった。高槻は主に旅雑誌を出している出版社の編集者でそこの経営者でもあった。彼との出会いは、出版系の人たちが日替わりで運営している喫茶店だった。ネットでその店を知り、東京でライター講座を受けているので、その帰り、出かけてみた。

 そこでマスターと話をしている高槻を見かけたのだった。話の様子から出版社の編集長をしていることが知れた。マスターは「真面目ないい本を出しているところ」だと高槻の出版社について真紀に紹介するように言ったので真紀の方から話しかけてみた。
 「私、今、ライターの講座受けているんですけど、仕事始めなんですけど、何かお手伝いできるようなことはないでしょうか」高槻に勇気を出して声を掛けた。以前、一通りライター講座の基本コースは終わって、その上のクラスを受講していて、平行して仕事を探していることも伝えた。
「もし、良かったら私の原稿を見ていただけないでしょうか」すると「それ、送って」思いがけない高槻の返事だった。高槻の出版社の住所も教えてくれた。
 真紀は、予想外のことに少し驚きながら自宅へ帰るとすぐさまその住所へ書いた原稿を送り届けたのだった。

 一月くらいして、忘れた頃に高槻からハガキが届いた。ハガキの文面は「一度東京に出てきませんか。下記の携帯に連絡ください。金、土の夜は繋がります」だった。やった、と思って真紀は早速高槻の携帯に連絡してみた。
 真紀からの電話だとわかると高槻は「原稿を見たけどね、良かったよ、どう? 一遍書いてみない?」と快く持ち掛けてくれた。
 なんてラッキーな展開。「ありがとうございます、ぜひ」真紀も夢中で返事をした。
「また東京出て来れない? そのとき、今後の話をしよう」
「東京ですか? わかりました。講座のある日の次の日でもいいですか。前日は最後の講座なので東京に泊まりますから。会いたい友だちもいますから」
 真紀は信じられないようなうれしい気持ちで、でも今はあまり何も考えないようにしてその日まで過ごした。

 上京したその日は、地下鉄神田駅近くの約束の喫茶店で高槻と待ち合わせをした。
 しばらくして現れた高槻は今日見ると、少し日焼けをしたような感じの落ち着いた中年の男性だった。真紀の顔を覗き込むように「お待たせしました。高槻です。この間はどうも」慣れた様子で声掛けをした。
 真紀はまず履歴書を差し出した。自分の不得意分野も正直に書いた履歴書。履歴書を見た高槻は「普通はこういうこと書かないよ」と笑い、高槻自身が書いた本を見せて「この本持っている?」と真紀に尋ねてみせた。真紀が首を振ると「正直だね」とまた笑顔を見せた。更に「偶数月が忙しいけど、奇数月は比較的暇なのでその月に東京出て来ない? 出版のこととかも教えたいし」と乗り気な様子だった。

 真紀が以前、夫がいたが今独りなのを知ると「今、独身なの?旦那さんと別れた後結婚しなかったの? 付きあった人はいなかったの?」と重ねて尋ねてくる。
「いえそんな気にならないし、そんな余裕はなかった」
「言いにくいことかもしれないけど旦那さんとはどうして別れたの?」
「別れたんじゃなくて、事故で亡くなったんです」
「あ、そうなの。まだ若かっただろうに。あなたもそれじゃ大変だったね。苦労したんだね。君は書くことが好きなの?」
「はい、書くことは好きです。私は大学卒業してすぐ結婚したので、本当は出版社で仕事をしたかったんですが田舎にはそういう所なくて」
 少し話した後、自分のことを言うように「作家はね、同じ職業の人か、全く違う人がいいんだよね」高槻は真紀の顔を見て「君は笑顔がとてもいいですね。目がきれいで」と褒めた。たぶん、真紀の席が窓の近くだったので真紀の目に外の光が映りこんでいたのだろう。

 高槻は五十代後半くらいに見える。きさくで優しい物腰だった。「今度上京したとき取材の仕方を一から教えてあげよう」と二月に一度くらい上京するようにという。地下鉄近くまで一緒に歩き、「苦労したんだね。いい思い出を作ってあげよう」と労るように言ってくれた。
「今日は友だちに会うの?」
「はい、大学のときの」
「男の友だち?」
「いえ、女性です」
「泊まるの?」
「いえ」
「でも遠くからわざわざやって来てくれたら感激するだろうね」
 地下鉄入り口で高槻とは別れた。 

 
 真紀の夫、一馬が亡くなったのは事故ではなく、実際は自殺だった。口数が減って、話しかけてもあまり返してこないし、仕事が大変なのだろうかと思っていた。返事をしても返事の仕方が妙にスローテンポだったり、黙って考え込んでいる様子を見かけることが多くなった。夜も眠れない様子だった。この人は心療内科でもかかった方がよいのではないだろうか、と思っていた矢先だった。

 春先の晴れた日に突然、旅行先で海へ飛び込んで亡くなった。真紀も四十半ばで子どもがいなかったから、死ぬまで二人一緒だと思っていただけに、突然のことに信じられなかった。呆然とした。仲がそれほど良い訳でもなかったのに、何年も一緒に暮らすと自分の分身のような感じで死なれてみたら、自分の身体の一部をもがれたように辛く虚しかった。
 一馬は旅行が好きでふらっと一週間くらい休暇を取って、いろんな地方を廻っていたが、今度もしばらく出かけるというので気にもしていなかった。それに家に居た猫も手回しよく友人に預けたりして、ちゃんと準備していたのだとわかる。

 一馬が出かける前日の会話は忘れない。夕食のとき、一馬が話しかけてきた。
「(猫の)ミーをもらってもらった」
「え、誰に」
「ミーは他に愛してくれる場所を見つけたんだ」
「え、あんなにかわいがっていたのに」二三日、猫のミーを見かけないので一馬が病院にでも持っていったのかと思っていた。
「それより明日からまた旅行に出て来るよ。今度は子ども時分に住んでいた秋田へ出かけてみたいんだ」「一緒に行かない?」と真紀を誘った。
「え、どうして? そういえば小さい頃住んでたっていう所でしょ」
「住んでたのは随分昔だけど、懐かしいから」
「行きたいけど、ほら仕事があるから、前から聞いていれば調節したけど」とその時真紀あっさりは断ってしまった。
 でも、あの時一緒に行っていればどんなに良かったか。行かなくても、もう少し何か言葉を掛けてあげれば良かった。故郷でもある街へ行ってみたい、と言っていたのに……。ずっと元気がなかったのに、最後に私に優しさを求めていたのに。

 もっと気持ちを聴いてあげたかったし、支えてあげたかった。
 なぜ止められなかったのだろう。
 心の中で最後の場面を繰り返し繰り返し巻き戻してみる。そんなことをしても仕方がないのに、何回あの場面を巻き戻したことだろう。でも自分の人生で一番大事なその時は永久に失われてしまった。
 
 結局、秋田ではなく見も知らぬ場所で夫は亡くなっていた。何か書き残した物はないかと捜しても見つからない。
 仕事で何か立ち行かなくなっていたのか。仕事のことなど何も家で話さない人だった。なぜ死んだのだろう、なぜなぜ、と問いかけても一馬はどこからも答えてくれない。
 心の中に大きな洗面器があって、そこにいつまでも雨のように涙が落ち続ける。でも、落ちても落ちても虚しい。寝るときに心が休まるように、夫のパジャマをお守りのように抱いて泣きながら眠りに着いた。このまま夢であればよいと思った。
 自宅にいると、いろんな場面での一馬のしぐさや面影がちらついた。町でよく似た人を見かけると思わずその人を目で追いかけてしまう。仕事をしても悲しみが心のすきまから入り込むようだった。
 仕事を続けるのにも心が付いていかなくなった。外向きの顔をするのが辛くなっていた。

 そして気持ちを一新し、今後の暮らしのために、一馬の故郷から実家の高山に帰って姉夫婦の和菓子屋の店を手伝うことにした。母も七十代後半ではあったが足腰も弱り、既に認知症が出ていたので母と同じ離れに住まい、その世話も兼ねていた。
 そうして生活が落ち着くと、東京には縁がなかったのであきらめていた学生時代やりたかったライターの仕事を、なんとか合間にできないかと考え始めた。実家に居て時間が自由になるから、空いた時間はその勉強にあてればいい。東京に良いところを見つけたので講座を受けに通うことにした。
 

 東京のスクールへ二週間に一度、高速バスで通い出した。
 講座では毎回熱心に課題を提出した。毎回、課題を提出する中で何回か真紀も優秀の評価をもらった。他に現役ライターをしている村上という三十代の男性も度々優秀の評価をもらい、講座の中では目立っていた。半年の講座の最後には卒業制作を制作することになっている。卒業制作は仕事を取りたいときにその作品が名刺代わりになる自分の原点ともいうべき大切なもので、皆が奮闘した。その卒業制作が認められてそれを機にライターデビューした先輩もいた。
 
 真紀は今回の卒業制作は自分からテーマを見つけて書かなければいけない原稿なのでどう手をつけていいか分からず村上に助言を求めた。すると親切にも、村上はどれ位の配分で地の文とインタビュー記事を入れたら良いか、そして自分の得意分野で勝負したら良いことなどを苦心している真紀に教えてくれたのだった。

 お陰で真紀は和菓子屋という観点から、最近斬新な和スイーツに挑戦している和菓子職人に関してインタビュー記事を書き終えることができた。その原稿は東京教室四十人の中で最優秀賞をもらい、雑誌にも掲載された。真紀は村上に適切なアドバイスをもらったからこそ最優秀賞をもらえたのだと思った。
 真紀に親切にアドバイスをくれた村上もまた優秀賞を獲得した。しかし見方を変えればもし、村上が真紀に親切に教えてくれなければきっと彼が最優秀賞をもらっていただろうと思う。
 
 その後、真紀は地元の高山でライターの仕事がないか自力で捜したが、東京や主要都市でない所でそもそも出版の仕事などはほとんどなく、採用は就職の時期に若い子を率先しているから年齢からいっても拾ってくれる所などはなかった。その後、なにか打開策はないかと更に上級コースを受けてみる気になり、東京へ勉強に通っていたときに喫茶店で高槻と出会ったのだった。

 そうした時、ちょうど基礎クラスで出会った村上から講座のメンバーで飲み会の誘いのメールがあった。真紀は「仕事は今、捜しているところです」という現況報告と共に出席の返信メールを送った。
 それに村上は気を利かせてくれたのか、村上はその日の二次会の席に受講した講座の講師をわざわざ呼んでいてくれたのが後で分かった。そこで出版社の編集長でもある講師から飲食店の雑誌の仕事を誘われた。しかし、真紀は高槻ともう約束し終えた後だったので、講師の話は受けることができないと思った。

 村上には後で「旅雑誌の仕事で東京の編集者に呼ばれて二月に一度くらいは上京するように言われたのだ」と話した。村上はたぶん、真紀が年配なのを考慮したのだろう、「でも、今のうちにいろんな仕事をやっておいた方がいいよ」と親切にも助言してくれた。確かにこんな機会を逃したら地方にいて、とても仕事を得る機会はないかもしれない。でも家の手伝いもあるし、今、母親の手がかかるとき、何事も手早い方ではないのでいくつも引き受けることは無理だろう。飲食店の忙しい仕事より高槻の落ち着いた仕事内容が自分に合っていると思い、講師の話は受けなかった。

 真紀は、思いがけず仕事の世話までしてくれようとした村上に対して本当に申し訳なさで一杯だったが村上は了解してくれ、「頑張ってください、また、新しい仕事、書いたら見せて下さいよ」とさらりと言ってくれた。
 真紀は、この恩は忘れがたいと思った。今の自分には何もできないが、もし、この先、機会があったらこの人にはきっとこの義理を返したいと思った。

 
 その後、約束通りに高槻からの電話連絡はあり、二週間ほど経った頃、
「今度の休みにさ、ちょっと部屋の配置換えをしたので整理を手伝ってほしいのよ」と言ってきた。
「お礼にさ、何か好きなこともさせてあげるから。東京出て何かしたいことない?」
「したいことですか? ああ、東京といえばミュージカルが見てみたいです」
「じゃあ、その日、手伝ってもらった後、ミュージカルを見ることにしよう。良さそうなの見繕って、予約入れといて。一緒に見よう」
「ええ、ほんとですか、ありがとうございます」

 そして真紀は既に上級講座の受講も終わっていたが、高槻との約束のために東京へ出ていくことにした。劇団四季のライオンキングをネットで予約して高槻に会う日を迎えた。
 
 その日、高槻は先日のように最寄りの神田駅まで出迎えてくれた。高槻の出版社は中に入るとかなりごちゃごちゃと床に書類や物が散乱していたが、書類の整理は手のつけようがなく、主に掃除だった。午前中は中の片付けを手伝い、午後からはミュージカルを見に行く予定になった。
 午後。ミュージカルを見に高槻と大井町へ出かけた。大井町駅からは劇団四季の劇場までしばらく高槻と歩いた。観客なのか、通りに人が多いのでなかなか前に進まない。やっと劇場に入って目新しい様子に周りを見渡しているとすぐに開演時間になった。

 会場に入ると高槻は、真紀の隣の席ににためらわず座った。しばらくして照明が落ちる。いよいよだ開幕だ。
 すると驚いたことに、いきなり高槻の手が隣の真紀の手に伸びてきた。周囲が見えない暗い中で真紀の手を手探りで捕まえると、さすったり指の間に自分の指を差し込んで絡めてくる。真紀は高槻の関心がそこにあるのに気づき、これはまずいと感じた。逃れてもしつこくいじってくる。観劇どころではない。気もそぞろでどうやってこの場を切り抜けようかと考えた。どうしようかと会場から一度出て弁当を買い、高槻にも渡して廊下で食べたりした。

 その夜は、高槻が予約していたホテルに泊まることになっていた。高槻が事前に自分が予約をしておくと言ったからだ。しかし目的のホテルへ行こうとすると高槻が先に立って歩いてゆく。
「私一人で行けますから」
「ホテル代払わなくてはいけないから」
「いえ、自分で払いますから」場所を聞いても言わないしこれは困った、と思いながら追っかけるようについて行く。ホテルの名前も知らされていない。
 追っかけながらやっとホテルに着いた。すると高槻は、あろうことか、受付ですばやく部屋の鍵を受け取ってしまった。そのまま無言で真紀と一緒にエレベーターに乗り込んでくる。鍵をもらおうとしても渡してくれない。
 驚いたことに真紀の部屋に着くとさっと部屋に入り込み、「今日の試合はどうかな」などと言いながらプロレスの試合を見る振りをしてなかなか出て来ない。真紀は部屋に入ろうとして入れない。困った、と思いエレベーターの前で時間をつぶした。

 どうしようもないのでしばらくして「私、よそで泊まりますから」部屋の外から声を掛けた。すると彼はあきらめたのか、「いや、鍵を渡すよ。渡すよ」あわてて鍵を持った腕を部屋の中からドアの外に突き出した。
 真紀は鍵を受けとり、入れ替わりにやっと部屋に入ることができた。危うく難を逃れた、と思ったら気力が尽きて服も着替えずベッドに潜り込んだ。信じられない気持ちだった。しばらく動悸が止まらなかった。全くとんでもない一日だった。
 翌日真紀は、旅費が嵩むので予約していた高速バスをキャンセルもしないで、雪模様の中を帰りの高速バスに乗った。しかし、雪は例年より多くて、いつもならこんな時期に高速を使うことはなかったのに、と後で後悔することになってしまったのだった。


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