小学生の頃の記憶たち
一、二年時
小学校に入って早々、いじめられる。名前が優希だから、という理由で、優希ンタマと呼ばれ続ける。顔がオカメ納豆のパッケージみたいだから、という理由でからかわれ続ける。教師に言ったら、喧嘩両成敗ということで、なぜか私も説教された。
家が小学校からめちゃくちゃ遠かったので、毎日不平等だと思っていた。夏休みの前は、泣きながら朝顔の鉢植えを担いで帰っていた。
一年生の時に、掃除中に運んでいた机を倒してしまい、知らない先生に死ぬほど、本当に死ぬほど怒られる。いま考えると、小学校一年生に一人であんな重い机を運ばせていた学校側がおかしい。
運動神経が悪いのに何も考えず走り回るガキだったので、校庭にあったうんていに顔面から突っ込んで前歯が欠けたことがある。既に永久歯だったので、今でも欠けている。半分埋まってるタイヤの遊具からジャンプして落ちて、おでこに大きいカサブタを作ったこともある。
当時は成績が良い方だったので、宿題のプリントの名前をクラスメイトに書き換えられて、高得点を奪われる、という被害に遭ったことがある。名前の書かれていない、30点のプリントが黒板に貼られていて、「これ、小林君のでしょう💢」と担任に叱責されて、「違いまずぅ」と、また泣いた。そのあと、名前を書き換えた犯人が見つかったけど、そんなイカれたことをやってのけてしまった、あの子の現在が心配である。
三、四年時
三年生の時の担任が筋骨隆々な人で、生徒を軽く天井近くまで持ち上げる、という遊びをよくやっていたけど、私は高くて怖くていつも嫌だった。
トイレ掃除の時に、笑っていた、というだけの理由で、この先生に説教をされたことがある。
当時は成長期で、大食いキャラだった。筋骨隆々先生に、休んだ子の分のトンカツを一枚多く貰って、残してはいけないと思って泣きながら食べた。(この時は優しく、「ごめんね、別に残していいんだよ」と言われた)
小学校四年生の時に、一部の女子の間で小林菌というウイルスが流行ったことがある。いま考えると、あれもパンデミックだったらしい。
行事の出し物で、エグザイルのチューチュートレインを踊ることになった。ボーカル役の子が面白い子で、誇張したATSUSHIのモノマネをして爆笑を掻っ攫っていたのだけど、「クラスメイトの歌を笑って馬鹿にした」という理由で、笑った全員が怒られて、みんなで泣きながら職員室に謝りにいったことがある。
とある下校時、下駄箱に靴が無くて、誰かに嫌がらせで捨てられたと思って泣いていたら、クラスメイトが、「今日サンダルで来ちゃって、サッカーやりたかったから借りてた!」と、私に私の靴を渡してきた。なんだこいつ、と思った。
五、六年時
図書委員をずっとやっていて、低学年の子に難しい小説を貸したから、という理由で、返却が滞る、と司書の先生に説教をされた。それ以来、図書室に行かなくなる。いま考えると、あの頃の公立小学校の教師って、全員イカれてた。
林間学校の出し物で、クラスメイトの男子数人と「コンビニ」というコントをやった。私が店員(ツッコミ)役で、変な客が来店し続ける、というような稚拙な内容だった。それでも、そこで会場が揺れるくらいウケて、人生の指針が知らぬ間に定まったような気がする。
小学校五年生の時に、クラスメイトが担任のお腹を殴って教室から逃亡する事件があった。授業が中断されて、(教師たちの指示ではなく勝手に)クラスの全員で校内を探し回った。やっと見つけたソイツは、校門の上に座って頬杖をつきながら「遅いよお」と言って笑っていた。今でも忘れられない。
小学校六年生の時に、担任にカンニングの冤罪をかけられて、悔しすぎて泣き喚き散らした。その場にいなかったのに、クラスメイト同士の喧嘩の説教に巻き込まれて、校長室に入れられたこともある。意味が分からない。
クラスメイトに突き飛ばされて、足の親指を捻挫する。この子とはその後も二人で遊んだりしていて、よく分からない関係だった。家が近かったので、その後もよく二人で下校しながら「サル実験教室」という即興コントをやっていた。私が博士で、この子が助手役で、猿やチンパンジーに阿呆な実験(派手なパンツを履かせる、など)をする、という内容で、台本なんて一切なかったけど、楽しかった。
小学校卒業時の私は、かなり太っていて、かなり髪の毛が長かった。卒業式の時点でホストみたいな髪型になっていて、中学校の入学式では大正時代の文豪みたいになっていた。
小学校全体を振り返ってみると、多くの教師から、こいつはストレスの捌け口にしていい、と判断されていたらしい。小学校なんて、説教を受けて泣いていた記憶しかない。
中学校編に続くかもしれない。
小林優希
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