見出し画像

シャーロット、僕を焦がして

 ノーナ・リーヴスの「フライデー・ナイト」って曲、あるじゃないですか。あれってなんで、サビで「サタデーナイト」って歌ってるんですかね?

 先輩、私の話ちゃんと聞いてます?



生活のニュース

 無事、四月の分の家賃を払うことができた。これでいま通っている学校が終わるまで、東京から追い出されないで済むことが確定した。本当は追い出されてもいいと思ってるし、今すぐにでも地元に帰って、真夜中に静かな住宅街を徘徊していたい。

 毎月、給料が振り込まれると直ぐに家賃を払うことにしている。そのまま払える光熱費を払って、残ったお金を全て自由に扱える感覚が、気持ちいいからである。

 気づいたらお金が無くなっている。自分で好きこのんで一人暮らしを始めたのに、お金が無さすぎていつも変な顔をしている。生まれつき変な顔なので、周りから「変な顔してるよ」と指摘されることは少ないが、お金が無いんだよなあ、と考えない日は無い。

 隣人が爆音でテレビを観るタイプの人で、壁の向こうが賑やかになると、いつ帰ってきたのかすぐに分かる。私も負けじと風呂場で熱唱したりしているので、このアパートは全体的に騒がしいのかもしれない。

 高円寺って、側から見ると興味深いかもしれないけど、いざ住んでみると何の面白味もない街だ。いや、面白味はあるのかもしれない。ただ、住んでる私は貧困を極めてるので、その面白さを享受することができずに、住宅街を日夜彷徨っている。

 外国人がYouTubeなんかに載せている動画。「これぞTokyo」みたいな感じで、ゲームセンターとかネオン街、渋谷・新宿なんかの街が紹介されていても、何もすごいと思わない。味気ない都会の街だよ、ソウルでも台北でもどこでも一緒じゃないのか。いつまで俺はこんな灰色の街に居なければいけないんだ、助けてくれ。

 お金を貯めて京都に移住する人生目標があるので、早いところお金を貯めてしまいたいという願望があるけど、いま見ている夢が覚めないで叶ってほしいとも思っている。お金があれば何でもできるけど、お金のためだったら何でもできるかと言われたらそんなことはない。楽な仕事しかしたくない。



流行りの音楽

 マカロニえんぴつやYOASOBIを聴いていない自分を決して、遅れてる、とは思わないが、yamaを聴いていない自分は、本当に社会から置いていかれてしまっているような気がする。

 yamaって、何やら私たちの世代の代弁者みたいになっている気がする。というより、私が何故かそう感じている。それでも、今からyamaを聴き始める度胸はないので、今日もいつも通りザゼンボーイズや、ザ・バースデイを聴いたりしている。南無三。

 怪獣の花唄という曲があって、これはバウンディの曲らしいんだけど、まさかこんなに有名になっているとは思わなかった。自分と同学年のミュージシャンの曲って、どれだけ頑張っても聴けない。未だ何者でもない私は、聴くことができない。

 私の高校時代、青春は“米津玄師”という色、一色であった。流行りものは当時から嫌いだったけど、米津玄師だけは天才だと思っていた。米津玄師を聴いていたし、米津玄師を歌っていた。

 「Pale Blue」くらいまでは米津玄師を追っていたのに、今では新しい曲が何も分からなくなっている。「キックバック」とやらが分からないので、チェンソーマンにも着いていけない。何とかの悪魔、上陸。みたいなインターネットのノリにもついていけない。

 米津玄師の「海の幽霊」を聴くと、2019年の、気が狂うくらい暑かった夏を思い出す。私にとって、最後の“色が付いていた夏”で、それ以降の夏は、最早ただの「夏」という文字である。失恋もしたけど、大学生活が楽しくもあった。演劇を楽しんでいたし、人生がこれから広がってゆくのだろうな、という気がしていた。

 流行りの音楽を聴くことから逃げてはいけない気がするし、逃げてもいい気がする。日常に忙殺されかけている、許してほしい。ナンバーガール好きなら、ピープルワンも好きになるかもよ、と言われたことがあるけど、別にならなかった。

 長い歴史の中で誰かが、いいね、と言ったものばかり好きになっている気がするけど、同世代の周りの人たちが、いいね、と言っているものを好むのは、私の誇りが許さない。

 どうして許さないんだろうな。



春という名の理(ことわり)

 冬が終わりかけていることに気づいて小躍りしてしまった。夜、真っ暗な部屋でお尻を出して踊っている。お尻を叩いて踊っている。お尻を叩かない夜は無い、未来永劫、来ることは無い。

 全ての季節の中で夏が一番好きだ。正確には、今から夏がやってくるぞ、という雰囲気の時期が好きだ。春が終わって梅雨がやってくるまでの、短い時間。一年間の中で僅かしか取れない希少部位。

 梅雨は梅雨で好きなんだけど、雨が降っていると散歩に行くのが億劫だから好きじゃない。両手を放して散歩することより楽しいことはない。暖かくなると、出かけるために着込まなくていいから嬉しい。夏なんて、部屋着のままだらっと街中を歩ける。シャツ一枚で生きられるなんて、なんて素晴らしいことだろうか。

 新学期が始まっても、何もやらなければいけないことがないのが嬉しい。春なんて、別れと出会いを無理やり権力に指図される嫌な季節だ。もはや無くなってしまっていいとさえ思っている。今年は春が来ても嫌なことがない、珍しい春が訪れている。

 私は花粉症なのではないか、という説が流れる。昨年から、春になると目が痒くなってきた。今年になってからは、鼻水が止まらず、喉がガサガザになってまともに喋ることができない。これは風邪なんだよ、部屋が乾燥してるからさ、と言っても周りのみんなは納得してくれない。くやしい。

 今年は、目黒川の桜を見に行くことができるだろうか。大学時代、目黒川の水面に、散った桜の花びらが浮いているのを見るのが好きだった。目黒川って、普段は真っ黒だったり緑色だったり、まあ言ってしまえば汚い川なんだけど、春になると桜の花びらのお陰で“目白川”と言っても過言ではないくらい、綺麗に水面が白く染まる。うつくしいのだ。

 今年は行く機会がないから、どうなることか分からない。それでも、機会が無くても見に行っていいくらい、あの景色は綺麗である。大学の卒業証書を受け取ったのがもう一年前になる、信じられないし信じたくもない。すっかり二十三歳になってしまって、もう自分が若いのか何なのかすら、分からなくなってしまった。

 馬鹿をやるほど若くもなく、深刻になっても絵にならない。無茶苦茶なまま転がり続けて、一年間が終わってしまったような気がする。挫折したまま引きずり回されて、それでも自分の形を保つことに精一杯だった。自分で望んで飛び込んだ世界なのに、つらい時は多いし苦しい夜もある。それなのに楽しい、舞台から離れられない。



あのひとは蜘蛛を潰せない

 以下は、もう何ヶ月も前に、衝動的に殴り書いた文章である。読むに堪えないものなので、諸君、くれぐれも目には注意するように。



 二年半、好きだった女に振られてしまった。あそこまで誰かを好きになったことは、人生で初めてだった。

 お互いに、ビートルズが好きということで仲良くなった。好きな音楽について、いつまでも語り合った。

 二人とも、散歩が好きなので、いろいろな駅で待ち合わせをしてその街を歩き回った。眠らない街・東京の、いろいろな駅に女との思い出があって、いろいろな街を女と歩いた。

 私が大学時代に気を狂わせて、全てを投げ出して京都に二ヶ月ほど逃げ出した過去がある。その時も女は、大枚叩いて京都まで会いに来てくれた。この女の、私への愛は本物だと思った。

 借りていた本を返すのを忘れていた。『あのひとは蜘蛛を潰せない』という本である。もう返す機会がない。借りていただけで、まだ読めてはいない。

 いつか、ラーメン健太に、一緒に行こうって言っていたのに。鎌倉に、広島に、沖縄に行こうと、話していたのに。お金も貯めようとしていたけど、私はお金は無いし、将来性も無いし、自分に自信もない。もう、もう私たちは難しいようだった。


 終わりは甚だしく呆気ないものだった。「話がある」と言われた。女が私のアパートに来て、少し気まずそうにして、無理に話題を振ってきたりした。

 申し訳なかったけど、それに応えられる余裕はなかった。数分後に別れを告げられることがわかっていたから。黙って、吐きそうになるのを耐えていた。どうせなら早く伝えて、俺を殺してくれ、と思っていた。

 女が居た堪れなくなったのか、コンビニに買い出しに行って、部屋に残された女の荷物を直視できなくて、ずっと壁だけを観ていた。苦しい時間だった。

 女が二年半に別れを告げて、私は、「わかった」とだけ返したつもりだった。気づいたら、「楽しかったです」と続けていた。女も、そうらしかった。いや、そうであってほしかった。「終わり」というものは、地球滅亡のように仰々しいものではなく、瑣末で味気ないものだった。

 部屋に置いてあった、女性用のシャンプーとリンスを、女はカバンに入れた。揺れる髪の毛を見ていたら、この女は、私といた時もこんなにうつくしかったのだろうか、と思ってしまった。

 久しぶりに会えるからと思って、コンビニのものだけど、ワインを用意していた。していただけだった。女が出ていったドアが閉まる時に、幸せになってください、と言ったような気がする。

 

 一人でワインを飲み干して、吐きながら、ユニットバスでぬるいお風呂に入った。何度も吐いて、オアシスの歌をいくつか叫んで、全てどうなってもいいと思った。自分の目を抉り出し、頭蓋骨を割り潰して、両手足を切り落とそうと思った。こんなもの、もうあっても意味が無いと思った。

 女の貴重な若い時間を、無駄に、二年半も無駄に消費させて申し訳なかった。あの夏に、女と出会わなければよかったのだろう。今すぐ、海を見に行きたいと思った。何もかも忘れて、海になりたい。溺死したい、と覚えた。

 未だにタチの悪いドッキリのような気がする。へへ、へへ、と笑いながら、女が出てくるような気がする。中央線のプラットホームで待っているような気がする。気がする…。

 


 以下は、二◯二四年、三月十六日の土曜日に書かれている。これは見返してみると、はっきり言って、もう読んでいられないような内容である。

 身を安く切り売りして生きている自覚はあるけれど、流石に、こんな文章を残していいものか、迷っている。

 事実を誇張なく記すことに意味があるのかもしれないけど、本当の事実は、あまりにも生臭くて見せられるものではないな、と思ってしまった。

 痴態を晒すことには定評がある。これからも任せていただきたい。最後に、この章の内容は全てフィクションである。皆様、よしなに。





小林優希

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?