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二〇二三年を振り返る
二〇二三年を振り返る
二◯二三年って、三ヶ月くらいしかなかったらしい。新しい環境に飛び込んで、挫折しかしてない一年間だった。夢を見ていたような一年間だったので、ちょっとみんなで振り返ってみよう!
一月
二◯二二年の年末は、大学の卒業論文を終わらせることに必死だった。その反動か、何もすることがなく退屈に感じられる一ヶ月だった。家族がコロナで寝込んでいたので、私も外に出られず、のんびりとした正月を過ごした。
武道館に、カネコアヤノのライブを観にゆく。素敵だった、素晴らしかった。
大学の期末考査を終わらせる。卒業論文を出して安心していたけど、四年生の後期にもなって、卒業に必要な単位を取り切っていなかったので、一つでも落としたら留年が確定する状況だった。頑張って勉強した。
バイト先(焼肉屋)の人たちと、新年会と称してお好み焼きを食べまくる夜を過ごした。
二月
大学、最後の授業の日。もう二度と来ないだろう、と思ってキャンパス内の至るところの写真を撮る。社会と時代によって、大切な時間をたくさん奪われたことを実感して、感傷的な気持ちになる。
山形・あつみ温泉に旅行にゆく。凍死するくらい寒かったけれど、凍死はしなかった。
バイト先(焼肉屋)の店長(結構、尊敬していた)が辞めてしまい、新しく来た店長がブイブイ言わせていて、嫌だった。
東京厨房・千駄ヶ谷店にゆく。この定食屋の雰囲気がとても好きだった。美味しくて量も多くて値段も優しくて、店員さんの接客もよかった。自分もこれくらい明朗に接客をしたいと思った。
「部活」の『叫び声』を観にゆく。自転車を漕ぐシーンは今でも思い出すくらい印象的だった。
三月
バイト先(焼肉屋)の人たちと、筑波へ旅行にゆく。その場の勢いで筑波山を登る。大洗で海鮮を食べて、霞ヶ浦も見た。
高校時代にできた唯一の友人とご飯にゆく。ひげをたくわえていて、大学院に進むことを怖い話のように話してくれた。
大学のサークルの人たちとご飯にゆく、一年生の時に私が尖っていたことをいじってもらえて嬉しかった。みんな進路が決まっていてよかった。
中学校のクラスで同窓会が開かれたので、行ってみた。よかった。みんな変わってないようで変わっていた。変わっていない人もいた。
三月は大学卒業などもあって、色々と忙しかった。楽しい一ヶ月だったけど、なんというか、これからみんなで手を繋いで自殺する、みたいな楽しさだった気がする。もうすべて、どうなってもいいような、吹っ切れた楽しさというか。「懲役四十年」みたいな言葉もよく会話に現れていて、本当に、人生最後の楽しめる時間を楽しむ、みたいな雰囲気だった。共通点は無いのに、三月に遊んだ同年代の人たち、全員からその雰囲気を感じられた。みんな社会に放たれて、バラバラになってゆくのだと思った。
大学の卒業式に行かないことをカッコいいと思っていたので、卒業式には行かなかった。
四月
ちゃんとしたフリーターとして一ヶ月を過ごした。卒業式で貰えなかった卒業証書を、大学に取りに行った。知らない学生課の職員さんに、卒業おめでとうございます、と言われた。新入生(恐らく)が書類のたくさん入った手提げを持ってキャッキャと楽しそうだった。私も四年前はあんな感じだったんだ、と思って死にたくなった。
深瀬昌久(写真家らしい)の展覧会を観にゆく。この人の生まれ育った、北海道・美深の街に行きたいと思った。死ぬまでに行きたい場所が増えた。
もうどうにでもなれと思って、髪の毛を無茶苦茶に刈り上げたり、一ヶ月で消えるタトゥーを体中に入れまくったりと、後戻りのできる範囲でなりたい自分になった。
五月
深川江戸資料館にゆく。江戸時代の建物なんかがずらっと並んでいて、圧巻だった。どうしてもっと話題にならないんだろう、と思った。
稲毛海岸でキャッチボールをする。この日は楽しい一日だったなあ、確か夕飯はしゃぶしゃぶだった。
お笑いの養成所、入学。初日はかなり、どきどきした。この日からずっと、どきどきする日々が始まった。
鎌倉に行って色々と巡った。私は鎌倉が大好きで、鎌倉を愛していると強く思った。
六月
高校時代の唯一の友人と食事にゆく。ひげはきれいに剃られていて、大学院の話をしてくれたような気がする。
養成所に入って最初に組んだトリオで、初めてのネタ見せをする。本屋のネタをやった、懐かしいな。まだ半年しか経ってないんだ。私が抜ける形で、トリオは解散した。
暖かくなってきて、友人たちと地元を散歩しまくった。気の合う人と話しながら散歩することが、この世のどんな快楽よりも楽しい。セックスよりも、覚醒剤よりも楽しい。
月島を訪れる、勝鬨橋を渡る。左手にスカイツリー、右手に東京タワーが見える位置を探して、橋を何度か往復したけど、見つからなかった。
七月
生まれて初めて、神宮球場に野球を観にゆく。夏の夜の神宮は最高だなあ、マリンスタジアムに負けないくらい素晴らしかった。山田哲人が打ってくれると嬉しい、どれだけ衰えても、私たちの世代のスーパースターは山田哲人だ。
一人暮らしを始めたい、と思って内見に行った。そこからとんとん拍子で話が進んで、八月の頭に引っ越すことになった。自分で決めたことなのに、誰かに決められたような気がして、もっと時間が欲しいと思った。
新しいコンビを組んだりした、漫才をいくつかやって解散した。
首を捻挫(ぎっくり首)する。今では寛解しかけているけど、ここから三、四ヶ月くらい、首の痛みに苦しめられた。ストレートネック、よくない。
死ぬまでに行きたい場所に行こうと思って、金沢・能登に旅行にゆく。素晴らしい時間だった。死ぬ時に思い出すんだろうな、と思った。
八月
養成所に入って、初めてのライブがあった。高校・大学と、あれだけ舞台に立っていたはずなのに、四年近いブランクを挟んだだけで、普通に緊張でおかしくなりそうだった。
一人暮らし、始まる。最初は東京での一人暮らしにわくわくしてたなあ。すぐに、実家に帰りたいと思うようになる。
インフルエンザ?になって、一週間くらい寝込んでしまう。たくさん痩せる。相方も見つからず、くしゃくしゃなまま夏を終える。
九月
相方が見つからなかったので、一人で頑張ろうと決意する。
決意するも、ピンネタを酷評されてしまい、体調を崩したり、ホームシックになったり、首を痛めて日々がつらかったこともあり、完全に心が折れる。
九月のライブに出演することは決まっていた。バックれて香盤に穴を開けるのは失礼すぎる、と思って出ることにした。出て、辞めようと思っていた。地元に帰って就職をするか、ユーチューバーになろうと思っていたけど、時間が経つにつれて、今できることをがむしゃらにやるのが私らしいと思って、辞めるのを辞めた。
美味しいピーマンの肉詰めを作れるようになる。
バイト先(焼肉屋)を辞める。二年間しっかりと働いたけど、最後は社員と喧嘩別れだった。
十月
新しいコンビを結成する。色々と頑張る、空回りでも痛々しくてもいいから、頑張ることにした。
お金が無くなってきたので、新宿のレストランでアルバイトを始めた。このお店が忙しすぎて、本当に発狂するかと思った。忙しすぎて、二週間くらいで辞めた。余談だけど、猫くらい大きいドブネズミが、よく店の周りを歩いていた。
首が痛くなったり、寛解したり、腰が痛くなったり、寛解したりと、体調に左右される一ヶ月だった。
時間があれば家で寝ていた。この振り返りは、携帯の写真を見ながら記憶を思い出しているのだけど、この頃から写真の枚数が目に見えて分かるように減っている。
十一月
新しいバイト先で、働き始める。清潔で安全で休憩の取れる労働環境に、驚愕する。
給料日の関係でお金が本当に無くて、毎日具無しのお好み焼きを食べていた。お金がないつらさを生まれて初めて味わった、泣いちゃいそうだった。地元の友人たちが食料を届けに来てくれた。
食べるものが無さすぎて、痩せまくる。同期たちに、痩せた?と本当に何人もの人たちに聞かれる。はい、痩せました。
十一月のライブを経てコンビ解散、もがき続けた二ヶ月だった。
十二月
新コンビ結成。こいつを誘ってダメならもうダメだ、と、相方は思っていたらしい。私も彼に対して、そう思っていた。
もうアルバイトと養成所以外、なにも予定がない。付き合っていた女にも、この頃に振られた。
養成所の同期(下田という男)と、信じられないくらいの時間、夜の東京を歩いた。散歩は、素晴らしい。
十二月のライブを終えた、もっともっと相方と上を目指したいと思った。
それから
年が明けて言うことではないですが、二〇二三年もありがとうございました。
二〇二三年の個人的な目標は「節度のある破壊」でした。養成所に入る上で、自分のできる範囲での「破壊」(物理的にも、創作をする姿勢としても)を、心がけたいと思っていました。型にハマったお笑いではなくて、自分のやりたいお笑い(破壊)を突き詰めたいと思っていました。
しかし、養成所に入ってからは、飛び込んでくる刺激が大変多く、自分の志した「節度のある破壊」は、正直ほとんど達成できませんでした。前に出なければいけない場面で萎縮して、控えるべき場面では暴発するなど、空回りしかしていませんでした。養成所で出会った誰かとお笑いをやるなら、お互いのやりたいことを擦り合わせなければいけない、ということすら気づいていませんでした。
二○二四年の目標は、「より刺激的な方へ」で行きます。選択肢が二つ現れたら、より刺激的な方を選びたい。これから死ぬまでのうち、今が一番若いので、今が一番バカをやっていい年齢なはずです。後先なんて考えず、いや、ちょっとは考えて、でも“ちょっとだけ”考えて、より刺激的で興味のある方へと飛び込みたい。
二○二四年は、本当にどうなるのか分かっていません。人生の中で予定が決まっていない一年が始まるのは初めてだ。なんて楽しみなんだろう。
小林優希
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