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24偽経

”偽経(ぎきょう)”と呼称される

経典は

偽(にせ)ではない

 

経は人が書き記すが

人のみでは書き記せない

真実の領域がある

 

また広く芸術も同様

 

解説要約)

口伝から経典へ

経典は文字が整い

木簡、紙が整いして

絵画や音曲のように

芸術の域に達したもので

ある

 

その芸術たちには

時に光り輝く本物があり

時にまがい物がある

のが常である

 

いわゆる”偽経“は

漢訳仏典(漢文書物)分類において

サンスクリット原本がない(失われた)経典に対し

冠された名称である

くだいて言えば

インドで成立したサンスクリット経典を

漢訳したのが本経(ほんぎょう)であり

インド以外(中国など)で成立した漢文経典

または

サンスクリット原典が失われた漢文経典

を”偽経(ぎきょう)“と呼ぶ

 

文献学的には

この分類には意義がある

だが経典内容的には

どうか

 

 

解説)

仏教宗派によっては

経典ではない偈文(げもん)などを

重んじる宗派もある

 

偽経(ぎきょう)は漢訳仏典分類研究において

サンスクリット原本やパーリ語にない

経典に対して用いられた用語であり

“偽経”の”偽“の文字は

内容の真偽を表す文字ではない

 

サンスクリット原典がある

漢訳経典の本経(ほんぎょう)

であるから尊いのではない

 

本経、偽経、偈文

いずれも何が

記され

記されておらずとも

指し示されているかが

重要である

 

さて文言の尊さは

人に判別できるか

 

数多(あまた)の

仏典や芸術は

人(ひと)だけが

記し、表現された

ものなのか

 

という、問いに

どう答えるか

 

私は自分の仕事に責任を持っていません

(棟方志功)

は棟方志功さんの口癖

だったそうだ

もちろんこの文言を

言葉通り解(かい)する者はいないだろう

棟方志功さんは

「自分でもどうしてこんな絵が描けたのかわからない」と

語ったこともあるそうです

つまり棟方志功さんは

己自らと“なにものか“によって

作品が描かれたのだ

と言うのです

さらにその“なにものか”によって

作品を描かされている

道具として自分があると

棟方志功さんの場合

この”なにものか”は彼の無意識となる

人それぞれにより”なにものか”は

仏であったり

神であったり

となる

芸術とは

そういったものとしてある

 

人間、ある域(いき)を超えると

己ひとりの力のみではなく

“なにものか”が力を貸して

さらにその“なにものか”の伝えたい事を

なす道具が己なのだという心境に達する

くだいて言えば

「降りてくる」と

いう事か

 

唯物論だけでは至れない境地

空海さん的には

加持されたものとしてある(注記1)

のが現実なのだと

 

文言や芸術の真偽は

同一性によって保証され

実感として”判る”ものである

そしてその直観、実感的

そして非論理的判断によるが故に

「わかる者にはわかる」

と言われるかも知れない

だが“わかる人にのみ”存在する

とした実感とは異なるのである

仮に経文の文言が真理に触れている

と実感する者が

ただひとりであるなら

またはひとりひとりの絶対主観(注記2)

のみであるなら

理解は不可能かも知れない

だが多くの人が共感し

判りあえる

それを保証するのが

同一性である

 

本経も、偽経も、偈文も

文字面だけを見る者には

その真意は判らない

“月”という真理を指し示す

指にとらわれて

月を見失う者のようなものである

 

文言を逐字(ちくじ)通りにのみ解釈する

偏狭な原理主義の

頑(かたく)なさで

偽経、偈文を見ると

それらを重んじ

尊ぶ者たちは

浅はかに見える

 

仏教をお釈迦様の説いた

(とされる)経文のみであるとする者

しかり

この狭い意味での

偏狭な原理主義的な

仏教の立場(仮にそういうものがあるとして)からすれば

大乗仏教も密教も仏教ではあり得ない

教を説くのが大日如来であったり

阿弥陀如来であったりと

そもそも

お釈迦さまではない

 

この偏狭な原理主義的立場からすれば

大乗仏典などは

本経といえども

内容的には偽物(にせもの)と解釈されるだろう

つまり

仏教展開を好しとせぬ立場からすれば

偽経も偈文も

その成り立ち、内容において

Fiction以外の

なにものでもない事となる

だがそれは全面的に正しい

という訳ではない

 

経典を人間のみが書き上げた

小説(fiction)とのみ捉える事は

妥当だろうか

それが経典でなくとも

多くの芸術作品に

”なにか人智を超えた“ものを

観ずることは

よくある事だ

経典においてはなおさら

 

一方において

経典には多くの

Fictionが含まれるのも

事実である

多くの如来が語ったとすることなど

お釈迦さまや弟子たち以外の

如来が語ったとされる部分は

Fictionである事は

疑いようがない

だが、その内容が全て

Fictionという訳ではない

と言う、ところが

現実を複雑に見せる

つまり

如来が語ったとされる事、自体は

Fictionである

だが、だからといって

その内容までもがFictionとは

限らない

ここに真理という”月“そのものを

観ずる難しさがある

”月“を指し示す言葉や図絵、

声字(しょうじ)から

”月”そのものを見るのは

一人(いちにん)としての

人である

 

例えば

般若心経が

“偽経”であるとする

文献学的議論がある

その真偽は文献学にまかせ

その内容を問うと

どうなるか

経文の声字(しょうじ)は

同じでも

観ずる者によって

相違が生じる

本経、偽経という

文字面に囚われず

その指し示す真理を

観ずる者には

本経も偽経も偈文も

一切の分類は

無意味である

 

「五蘊皆空」は

「色即是空

 空即是色」

であり

一切は空からでて

空に帰する

すなわち

「一即多

 多即一」

となる

 

さてこの理(ことわり)の

真偽と

経典の真偽が

別物であることは

明らか

 

「顕密は人に在り、

 声字は即ち非なり」

(般若心経秘鍵:空海)

「顕教と密教の違いは、

 教えを受ける人に在る、

 経文中の声字に違いはない」

 

また

例えば偈文における

人智を超えた一文として

“横超(おうちょう)”をあげよう

この文言は人が書いたものか

文字面ではなく

その真理を含む全体を

見るに

この”横超“は

人だけの言葉を超えている

 

阿弥陀経の一文を(注記3)

抜き出して立教することに

意味を見出せるものには

”横超“が人の言葉を超えている

とする意味が

理解できるのではないか

 

 

注記1

弘法大師空海さんは

加持(かじ)を二つに分かち

「加」大日如来が衆生に働きかける様(さま)

「持」衆生が大日如来の働きかけを受ける様(さま)

とした

 

注記2

絶対主観:
すべての経験や認識が主観的なものであり、客観的な世界は存在しないとする。つまり互いが理解できる根拠の喪失、遺棄となる。極論すれば本来的に人は理解し合えないとなる。

 

注記3

「阿弥陀教」

阿弥陀仏四十八願中の第十八願:念仏往生願

原文

「設我成仏、十方衆生、心持称名、欲生我土、乃至十念、
 若不生者、我誓不成仏、唯除五逆誹謗正法」

わたし、阿弥陀仏が仏になるとき、世界にある衆生が、こころよりわたしの名を称え、わたしの極楽浄土に生まれようと欲して10回念じたにもかかわらず、もし極楽浄土に生まれることが叶わぬのであれば、わたしが成仏することはないと誓った。だだし五逆を犯し、正法を誹謗するものを除いて。

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