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一宮市ってどんなまち?⑨

 いちのみや市100周年専門委員、修文大学短期大学部の櫻井です。

 3月に入り、一宮も少しずつ春らしい日が増えています。短大は2月から始まった春休みも折り返しとなり、1年生は就職活動がスタートしました。コロナ禍のもと、新しい形での就職試験は大変だと思いますが、学生たちは前向きに取り組んでいます。

  さて、今回のお題は「一宮ならでは」。前回も書いたように思いますが、ひと通りそろっているのが一宮です。でも、「一宮ならでは」といえば、すでに、木曽川に触れ、暮らしやすさに触れ、あとは何?と思うと。

 で、前回、前々回に続き、しつこいようですが、毛織物かなあと。

尾州産毛織物について語りたい

 とにかく、私も、毛織物について語りたい!!!!

 素晴らしい毛織物は一宮ならではです。学生たちと、市内のいくつかの工場を見学させていただきました。羊の原毛から糸を紡ぎ、そして織り機や編み機で、織ったり、編んだり。染めも素晴らしくて、糸の段階から染めたり、布になってから染めたり。さらには仕上げの工程まで。そして出来上がったものが、日本だけでなく、世界で着用されている。これは何より一宮ならでは。

 写真はいちのみや市100周年専門委員会でもご一緒の葛利毛織工業株式会社様を見学させていただいた時のものです。博物館にも所蔵されているような古い織機を用いて、最高級の毛織物が出来上がる工程に、学生たちも魅了されていました。仕上げ加工が行われる前の布地ですが、独特な風合いはファストファッション世代の学生にも伝わる素晴らしさです。

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 さて、毛織物とは何でしょう。まずは素材。羊の毛が代表的なものになりますが、山羊やラクダ、ウサギなども用いられます。カシミヤなどはカシミヤ山羊の毛ですし、ラクダの仲間にはアルパカなんかもいますよね。もともと、日本には羊を飼育し、そこから織物を作る文化はありません。麻や綿を育てることや、養蚕はできても、日本の気候に羊の飼育は向いてなかったとも言われています。

 古くは戦国時代の武将たちの陣羽織に毛織物が利用されていますが、これは南蛮産。織りや染めの技術は、他の国々と比べても、古代からかなり進んでいたようですが、麻、綿、そして絹に限定され、毛織物は明治時代に軍服のために初めて導入されたといわれています。

 一宮でも明治初期までは綿の栽培と綿織物の製造に取り組んだようです。明治初期には綿織物の生産額では全国一位との記述があります。生産量に対して、生産額が高いのは、量産型というよりは、高級品を製造していたからのようです。特に、手の込んだ縞木綿は有名だったようです。縞模様というと、日本らしい模様だななんて思う方もいるかもしれませんが、江戸時代にインドから入ってきた生地見本や浮世絵から認知が広がり、江戸中期以降に庶民の間に木綿とともに大流行した模様です。

 その後、高級綿布の織り技術を活かし、綿と絹を合わせておる絹綿交織という布へ移行し、毛織物にたどり着きます。毛織物も洋服地だけでなく、着尺地とよばれる和服用の毛織物も作られていて、今の私たちの感覚とは少し異なる世界が広がります。戦後の復興の過程で毛織物産業が飛躍したのは私が紹介するまでもないのかなと思います。

 現在一宮博物館では特集展示として「墨コレクション 洋装 軍服からスーツへ」が開催されています。

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 日本は江戸末期から洋服を軍服として導入し始めます。

 江戸末期の武士の写真の中には現在の学生服のような黒い詰襟に袴を合わせた姿も見ることができます。陸軍のフランス式、海軍のイギリス式なんていうのは有名で、今回の展示も、「陸軍騎兵大尉正衣」のジャケットは肋骨服と呼ばれるフランス式の軍服をみることができます(左端)。レプリカではなく、本物!すごい!としかいいようがありません。現在と違ってとにかく華やかなのが軍服です。肋骨服の由来となる胸のブレードは現在ならロックスターのコスチュームのごとくですし、袖のくるくるとした飾りも、階級が上がれば上がるほど華やかになっていきます。さらに、赤いズボンを組み合わせるなんて今では考えられない姿です。

 そしてフロックコート(右端)。こちらは明治天皇が所用したものだそうです。フロックコートは近代男性服のフォーマルウェアとしては代表的なものです。軍服とは異なり、黒一色というのは、男性の服飾がイギリス発の流行から一気に変化した後の装いです。これは、現在の紳士服の色遣いなどにつながります。コートというと、防寒具として用いられそうですが、そうではなく、ウェストコートと呼ばれるベストのような衣服の上に直接このコートを着ます。当時のフォーマルウェア、ビジネスウェアとして定着していたので、時の首相や国王といったセレブリティなどの写真などでもよく見かけます。フロックコートにシルクハット、ボトムはフルレングスのズボン、さらにステッキを組み合わせる、なかなかエレガントな装いです。

 同時代の女性はまだまだウェストをコルセットで絞め、ヒップの部分にボリュームのでるバッスルをつけたロングドレスの時代ですから、男性のフロックコートにシルクハット姿は、丁度釣り合いがとれるのかもしれません。

 実は授業で服飾史を担当しているのですが、紳士服の服飾においてはこのフロックコートにシルクハット、ステッキという装いの人気がとても高いのです。流行は繰り返すともいいますから、再び用いられることを期待しましょう。  

 そして、普段着としてのラウンジスーツが登場します。背広のことです。当時のプライベートな写真などで用いられているスーツです。ゆったりとして着やすそうな雰囲気のものが多いように思います。こちらも佐藤栄作氏の所用したものが展示されています。当然本物です。

 今年の大河ドラマは丁度幕末から明治、大正、昭和へと日本の服飾が和装から洋装へ変化していく時代を取り上げます。服装にも注目していただけると面白いと思います。

 毛織物を作り続けて100年超。このような素晴らしい資料が一宮にはあります。一宮市立博物館では時々主題を変えて展示が行われるので是非ご覧になってください。

6年着用するセーラー服

 最後に。

 一宮に来て、毛織物に関することで驚いたのは女子生徒のセーラー服。男子生徒が、黒の詰襟を中学から高校までボタンを変えて、着用するのは当たり前かなと(昭和の常識かもしれません)。しかし、公立の中学で着用したセーラー服と同じものを県立の高校が制服として採用しているのには驚きました。尾州の毛織物からつくる制服は3年だけの着用ではではもったいないという説は都市伝説でしょうか。普段着の価格が下がっているので、制服はなかなか高価なものとなりました。尾州産の毛織物であれば、間違いなく、良いものですし、親としては6年着てくれるとありがたい気持ちもよく分かります。

 市内の公立中学の制服が令和4年からブレザーにかわるようです。こちらも軍服由来の詰襟、セーラー服から、気軽な上着であるブレザーへの変化です。再来年度中学に入学する生徒たちが高校に入学するのはまだ先のことになりますが、素晴らしい尾州の毛織物の制服ならば、大切に着てほしいものです。

 参考文献:一宮の歴史 一宮の歴史研究グループ執筆 平成6年発行


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