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序:量子力学的な世界観【ベルの不等式の破れ】

自然界に起こる現象の諸々には何かそれより先に原因があるに違いない,と昔から人間はそのように考えてきました.原因を辿っていったときに,明らかに観測できるものだけに原因を求めていくものが科学の扱う領域であり,「再現可能な経験」が科学の境界条件と言ってよいかと思います.

天体などのマクロな物体の運動がニュートンの運動方程式で非常にうまく記述できたことが今の物理学の源流とされています.運動方程式は時間に関しての有限階の微分方程式の形ですから,現在の位置と速度,それから力という概念を原因として与えることができれば,未来のどの時刻にどの位置にいるかは一意に決まることになります.またニュートンの運動方程式は時間反転に対して対称性を持っているので,現在の状態がわかってしまえば,過去の状態も一意に決まることになります.

古典力学的な世界観

このニュートン力学が完全に正しいとすると,もし宇宙の現在の状態を完全に把握することができ,それを解析することのできる知的存在がいれば,過去も未来も何一つ不確定なことはないことになります.この知的存在はラプラスの魔と呼ばれるようになりますが,人間との本質的な差異はないわけで,無限の努力によって人間も未来を完全に見通せるようになる,もしくは運命はすでに完全に決まっているのだと考えるのも自然です.現実的には人間は無知であるために,この無知に起因して確率が現象の記述に入ってくる,というのが古典的な統計力学の考え方になりますが,原理的には全てが決定しています.自然現象は,力学的な相互作用とその時間変化があるだけで,因果関係とは人間の認識の仕方の領域にあるという言い方をすることもできます.

相対論では同時性が相対的なものになり,代わりに4次元のミンコフスキー空間が絶対的なものとなるので,運動方程式の形式はより一般的なものに拡張されました.光速を超えて情報は伝わらないので,全ての情報を同時に知り尽くすことが前提となっているラプラスの魔はこの時点で消えてしまいます.しかし,系にはその状態を表すような物理量が備わっていて,値を知っていようが知るまいが,全ての物理量はいつでも一つの値に決まった値を持ち,測定をすれば理想的には系の状態に影響を与えることなくその値を知ることができる.従って,状態を時々刻々追いかけていけば,自然を記述したことになる.理論の決定論的な性格は変わりません.

古典力学のこのような世界観は,局所実在論(local realism)に根ざしているということができます.何かが本当に実在していてそれが運動したり変化したりするという考え方を,私たちは生まれてからの経験によってごく自然に身につけていると思われます.アインシュタインは局所性と実在性を次のように定義しました.

局所性: ある系に属する物理量を測定しても,そこから遠く隔たった他の系の測定には影響しない.
実在性: 系の状態は測定する前から一つに定まっている.すなわち,物理量の全てのセットは定まった値を持っていて,観測によって物理量の値を知ることができる.

局所性や実在性に関してもっと細かい条件をつけることもできますが,ともかくアインシュタインのこの定義を使って考えを進めることにしましょう.

ベルの不等式

局所性と実在性を満たしているときに成り立つ不等式をベル(John S. Bell)は実験可能な形で見出しました.ベルの不等式と呼ばれるこの不等式を以下に導きます.そのために局所性と実在性が重要な役割を果たす次のような状況を考えます.

内部角運動量(スピンというものです)が$${0}$$の一つの粒子が崩壊して,角運動量をもつ二つの粒子 A と B になったとします.角運動量が保存することから,ある軸方向の角運動量に関して A の粒子が正の値を持っている場合,B の粒子はちょうどそれを打ち消すような負の値を持つことになります.局所性を仮定すれば,Aの粒子の角運動量の測定は B の粒子には何の影響も与えることはありません.したがって,実在性があれば,片方の粒子の測定によって,もう一方の粒子の角運動量は測定するまでもなく決定できることになります(下図参照).このことはどの軸方向について調べようが同じことです.

以上から,Aの粒子の持っている角運動量の値を,Aの粒子の測定と,もう一方の粒子Bの測定によって決めることができます.したがって,Aについて実験的に二種類の軸方向に関しての角運動量を決めることができると言えそうです.ここで,$${a}$$軸・$${b}$$軸・$${c}$$軸という三種類のそれぞれの方向の角運動量を考えます.そして例えば$${a}$$軸$${b}$$軸方向が同時に正の値を持っている確率を$${p(a+,b+)}$$のように書くことにします.

$${c}$$軸方向の正負に関して(仮になんらかの方法で観測できるものとして)場合分けをしてそれぞれの同時確率を考えてみます.すると次の不等式が成り立つことがわかります:

$$
\begin{align*}
p(a+,b+) &= p(a+,b+,c+) + p(a+,b+,c-) \\
&\leq p(a+,c+) + p(b+,c-)
\end{align*}
$$

いったん3つの物理量の同時確率を仮想的に考え,その後実験的にも確かめられる2つの物理量の同時確率に戻すことで不等式になります.

ここで,同時確率の引数の一番目に書いたものは粒子Aそのものを測定して得られる値であるとし,二番目に書いたものは粒子Bを測定して間接的に決めた値であると約束しましょう.すると直接観測していない量を排反事象として場合分けしているということになります.しかし,局所実在論が正しければ全く問題ありません.

この不等式がベルの不等式です.普通の感覚ではなんとも当たり前で,これが破れるとは思えないような簡単な式に見えます.(ちなみに今回導いたのはベルの不等式のいくつかあるバージョンの一つで,ウィグナーが考えたものとほぼ同じです.)

量子力学的な世界観

驚くべきことに,実際の実験結果はベルの不等式を破ります.(アラン・アスペ(Alain Aspect)らはこの実験により2022年にノーベル賞を取りました.)

$${a}$$軸と$${b}$$軸のなす角度を$${\theta}$$とします.そして例えば$${c}$$軸が$${a}$$軸と$${b}$$軸の同一平面内にあり,$${a}$$軸と$${b}$$軸を二等分する方向に対して直角に向いているとベルの不等式は破れます.ベルの不等式の中に現れる確率は

$$
p(a+,b+) = \frac{1}{2}\cos^2\left(\frac{\theta}{2}\right)
$$

のようになり,これをベルの不等式の各項に拡張して当てはめていけば

$$
\cos^2\left(\frac{\theta}{2}\right) \leq 2 \cos^2\left(\frac{\theta + \pi}{4}\right)
$$

となります.しかしこの不等式は今考えた状況だと$${\theta = \pi/3}$$のときに最も大きく破れ,

$$
0.75 \leq 0.5 \quad (???)
$$

となることが実証されたのです.

実は,測定値は測定操作を通して出現するものであり,測定しなくても実在する測定値なるものを論じるべきではなかったわけです.そこで実在性を疑って新しい理論を作る必要があります.

ここで局所性を疑わなくてよいのかという疑問も出てきて当然でしょう.実際,ベルの不等式の破れだけからは局所性も破れている可能性は否定できませんが,相対論という局所性を尊重した理論がうまくいっていることから,局所性は放棄せずに進めるのが無難です.局所性を放棄するとしたら,おそらくなんでもありな理論になってしまい,あらゆる現象を説明することができたとしても,実際には起こり得ないような現象は予測しないような良い理論にすることが難しいと思われます.対して,「測定しないときの測定値」は言葉の意味的にも検証しようもないことですから,実在の概念が疑われます.

この最小限の修正によってうまくいっているのが,量子力学という体系なのです.すなわち,量子力学は局所非実在論に根ざした理論です.

アインシュタインは感覚的に妥当な気がする局所実在論を仮定していたため,量子力学の記述は不完全であると考えていました.そして隠れた変数を入れることによって量子力学の枠組みをより完全なものにしようという方向の研究も生まれました.しかし,隠れた変数を仮定しようがしまいが,実験的に得られる結果には影響がないのだから,これは好みの問題であって,事実を超えて解釈を入れるのは物理学の問題ではなかった.ベルの不等式の発見によって初めて,この点を見事に実験で確かめられる問いに落とし込むことに成功し,科学の境界を外側に拡大したといえます.そしてこの押し広げられた領域にこそ,量子力学でなければ説明がつかない現象があるわけです.したがって,実験的に量子力学の本質を最もあぶり出すのは,ベルの不等式を導出したときに考えたように,複数の系が相互作用して互いに関連しあっているときだと言えると思います.

(注:なお,今回の系の設定のような場合,部分系だけに注目するかぎり,古典的な確率に従っているだけに見えます.他方の情報を捨ててしまうと,量子力学的な非実在性は消えてしまいます.量子的な状態にするためには,関係ない系との相互作用の効果を断ち切り,状態を準備する必要があります.そしてその状態準備のためには,着目系を測定すればよい(もちろん測定結果の情報は捨てない).測定には常に二つの側面,系の情報を得るという側面と,系の状態を準備するという側面があるのです.)

ベルの不等式の破れからわかったことは,観測していない量については定まった値がなく,場合分けをすることが一般にはできない,ということです.(束論の言葉で言うと,分配律の成り立たない命題束をなしている.)ここからどのように理論を形成していけばよいのでしょうか.それはおそらく難しい問題で,私には厳密な議論を展開することはできませんが,次回からは量子力学の枠組みを多少は飛躍しながらでも組み立ててみることにしましょう.


参考文献(?)

量子力学の初学者におすすめするような本ではないのですが,今回の話題に関連して,量子力学の哲学に興味のある方は,レッドヘッドの『不完全性・非局所性・実在主義』を読むことをお勧めします.物理ではなく哲学の本ではありますが,ちゃんとした物理に基づいて書かれています.(難しい.)
著者のレッドヘッドさんは,大学を出たあと20年ほど家業に携わってから,数理物理学で博士号を取り,しかしより基本的な物理学の概念に興味を持ち科学哲学の研究を始めたという面白い経歴を持っています.


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Aug. 23 2023 測定に関する注を加筆
Aug. 20 2023 ベルの不等式で測定軸の設定に間違いがあったため修正
Sept. 20 2023 確率の引数の順番の入れ替えは本質的でないと思い修正
Sept. 21 2023 日本語を校正


クオリティの高いノートをたくさん書けるように頑張ります!