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アイドリッシュセブンは終わることができるコンテンツであることを選んだ

先日、久々に英語の文章に触れた。拙い英語で文面を考えながら、英語の文法について考える。SVOの順番とか、文章の最初を大文字にするだとか、英語の初歩の初歩だ。

そういえば、英語のテストで減点を受けた時、ピリオドをきちんとつけるように指導されたことを思い出す。

ピリオド。終止符。何かの終わり。文章には終わりがあって、大文字で始まってピリオドで終わるのが、ルールである。

始まったら、終わりがある。当たり前すぎて、普段は気付かないようなことだ。人もいつか死ぬし、物語は終わる。コンテンツも同様だ。

漫画には最終回があって、ドラマにも終わりがある。小説の本を閉じて世界が完結する。

そういう中で生きてきた自分にとって、「ソシャゲ」の物語というものは、異質なものだった。

なにせ、アプリゲームというのは、続けることがよしとされている。どれだけ結末の気になる物語があっても、区切りはあれど結末、最終回を迎えることはそれすなわちサービスの終了(いわゆるサ終)なのだ。


そうして、アイドリッシュセブンは「アプリゲーム」だ。

7年間続く物語は、佳境を迎えている。シナリオの中でも終わり、というか一つの最終回が示唆されている。

終わりはこわい。お別れも寂しい。好きな気持ちに変わりはなかったとしても、何かしらのピリオドが打たれてしまった瞬間、形を変えてしまうような気がしてしまう。

その一方で、物語として作り手が結末を用意するのであれば、それを見届けたい気持ちがある。

このコンテンツが物語として完結するほうがいいのか、このまま終わらせないまま永遠になればいいのか、7周年という”節目”を迎えていると実感するたびに考えてしまう。


IDOLiSH7記念日という今日のよき日に、この話をすることを許してほしい。

だけどどうしても今書いておかなければいけない気がした。IDOLiSH7が、アイドリッシュセブンが形を変えていく瞬間がすぐそこに差し迫っているのだ。

分岐点というか、シナリオ内の言葉を借りればこうだ。


『僕たちは、どんなふうに形を変えていくだろう』




「終わらないは嘘だよ、オレは死なないと同じくらい嘘」

アイドリッシュセブンの5部の本編中に七瀬陸が言った言葉だ。シンプルな言葉ゆえに、だからこそ強く突き刺さる。そうだ、「終わらない」ということは、どんなものにあってもあり得ない。こと、物語であれば尚更だ。

近年のソシャゲジャンルの台頭は、「終わらない物語」を生み出した。

とても概論的な話になってしまうけど、それまでゲームというのは発売されたら終わる物語だった。と言うか、クリアしたら物語が完結するものだった。そう言う意味では、ゲームを進めてクリアすることで世界が完結していた。隙間を埋めるように夢想したり、後日譚・前日譚に思いを巡らせたり、そういう余韻を楽しむことも加味してのゲームだった。


けれどソシャゲはそうではない。物語の区切りは作ろうとしなければなく、ほとんどのストーリーがサービスが続く限り終わらない。まるで人間が生きているように、経年で提供されるものである必要性がある。当初予定されていたであろう物語の結末ではなく、ユーザーの反応に応じて変化して行くのがソシャゲという物語の強みである。


終わらない物語は、言い方を変えれば進化し続ける、変化し続けるものということだ。一番最初に好きだったものがそうでもなくなっていく。嫌いではないけど、作品の印象が変わってしまう瞬間がどこかにある。ストーリーのはずなのに、作られた物語のはずなのに、どこか人間じみた変化をするソシャゲのストーリーに、情緒を感じる一方で、違和感を覚えたひともいるだろう。

ソシャゲを終わらせないためにユーザーは尽力する。いま、コンテンツは「終わらない」ことが重要になっている。言い方は悪いが、それが経済だと知っているからだ。楽しめる、心の安らぎのコンテンツがずっと続くよう、そうしてそれを提供し続けることで運営が発展するような仕組みになっているから。


だけど、アイドリッシュセブンは、物語に一つの結末を作った。

女性向けセルランの上位にある、いわゆる「まだまだこれからも見込みがある」ゲームが、ストーリーの結末を作る。物語には当たり前に結末があるとは言っているけど、アイドリッシュセブンはソシャゲ、アプリが、原作のゲームだ。終わらせる、ということは、終わらせない物語を提供し続けるソシャゲにおいて、経済活動の何処かを停止させるという意味でもある。サービス終了だとか、そういう話ではなく、アイドリッシュセブンの物語の担い手たちは結末を作った。


アイドリッシュセブンは「いつか終わる」

いつかコンテンツに終わりは来る。

それが5年後か、10年後がわからない。今のアプリゲームという形でなくなるのかもしれないし、物語だけがぷつんと途切れるのかもしれない。言いたかないけど、収益が上がらなければサービス自体が終了となってしまうだろう。

もちろん、まだアプリゲームという媒体でこのコンテンツが終末を迎えるという訳ではない。けれど、確実に近い将来、アイドリッシュセブンという物語は、「一つの結末」を迎えるのだ。

その日が待ち遠しくて、どうしようもなく怖い。数多のコンテンツは、終わらないために、永遠にするための方法を模索する。

だけどアイドリッシュセブンは、何かしらの結末を迎えるのだ。それを選んだ。作り手たちは物語が一番美しい形で保存をする。

変わらないものはないと明言して、終わりを迎える物語があることを提示してくる。明確な区切りがそこにあって、否応なくアイドリッシュセブンが物語であることを突きつける。アイドルである彼らはきっと、どこかで生き続けるのだろう。変化して、色を変えて、形を変えながら。

わかってはいた。現実に交差してくる彼らを見ながら、どこか漠然とコンテンツであると俯瞰する自分もいた。物語がある以上、結末はある。何度も何度も乗り越えてきたはずの最終回が来るだけの話だ。わかっていても、それでもやはり、お別れがこわい。

アイドリッシュセブンというコンテンツが、自分の中にたくさんの意味を内包しているコンテンツだからだ。

それでも、はじまって終わることに、物語は意味がある。終わらない物語は理想かもしれないけど、生み出すものに限界も限度もある。生き続けるコンテンツはそれだけで物語だ。



……というようなnoteを前日までに書いていたのだけど、本日公開されたIDOLiSH7のリリックビデオで、その中の答えが出た気がした。

「HELLO,CALLiNG」


博物館の中で美術品を模したIDOLiSH7たちが踊ったり歌ったり、手を取り合ったりする。「ナイトミュージアム」みたいな、「メトロポリタン美術館」みたいなMVだ。

美術品は、時を越える。作者たちがいなくなり、時代が移り変わり、いろいろなものが変わっていく中でも、美術品だけは形として残る。

音楽もそうだ。クラシック音楽は時代を越えて演奏されるし、いつ作られたのかもわからないけれど、不変の存在として演奏される。古典文学は教科書に載って残る。

その時代を象徴するような作品は、作者がいなくなっても、私たちがいなくなっても、『繋いでいきたい』という気持ちが繋がることで、永遠に近しい命を得られるのだ。


私たちは、自分が息をしているこの瞬間が大事だ。かつてIDOLiSH7が歌ったように「未来じゃなくて、今日に夢中になって」という歌詞のように、今を生きることで精いっぱいだ。目の前にあるコンテンツや、彼らが自分にとっての永遠になる方法をいつまでも考える。

けれど、いつか物語は終わりが来る。何かしらの結末を迎える。一方的に好きでいても、ふっと星空をかけて、消える星みたいにいなくなってしまう。


いつも思う。

IDOLiSH7を、アイドリッシュセブンを永遠にする方法。自分の中で永遠にする方法より、ずっと確実な方法がないのか、いつも考える。

その一つが、きっと繋いでいくことなのだ。

こういう作品があって、素敵だった。アイドリッシュセブンが歌った歌とか、紡いだ物語だとか、そういう、何かしらの形が残るもので、美術品さながらに続いていくことができる。

作られたものだからこそできることだ。

結末を迎えた物語を、大事に飾っておきたい。色褪せたページを懐かしんで、彼らの選んだ結末を英雄譚のように語り継ぎたい。それは、彼らが作られた物語だからこそできることだ。わたしたちが生きているからこそ、できることなのだ。



こんにちは、もしもし。

そういう風に、呼びかけをするのはいつの時代の誰に対してなんだろう。

もしかしたら、国も超えているのかもしれない。

例えアイドリッシュセブンが終わりを迎えたとしても、時代を越えて、いったらいいとおもう。

願わくば、遠い未来の誰かが、アイドリッシュセブンの名残を見つめて、彼らの生きた時代に思いを馳せてくれますように。


それこそ、来年も、10年後も、来世でも。