萌えの効率と要領のいい現代のオタクと、取り残される古の私


自粛生活でいろいろと物思いにふける夜も多い。
新たにふれたコンテンツについて思いを巡らせる時間も多くなった。

そんなわけで、アイドリッシュセブンだけでは足りなくなり(?)、最近図書室のネヴァジスタをプレイしたのだけど、これは本当にすごいゲームだった。
正しく創作同人活動というのを体現しているゲームだと。

同人活動というものは縛るものが何もない自由な活動だ。
商業レーベルであると、大人の事情だとかいろんなあれこれでできないことを、同人活動は自己責任という括りでできる。
「図書室のネヴァジスタ」はまさに都志見文太先生が自分のやりたいことを性癖を存分に詰め込んでいるものだった。

ネヴァジスタへの思いを巡らせているなかで、ぼんやりと自分の同人活動、二次創作活動について思いを巡らせる。
まあようするに『どうして私はこの活動をしているだろう』という話。

自身の創作活動を紐解くと、自分の中にあったのは「こうだったらいいな」というifの想像だ。
作品に触れながらこういう世界だったらいいな、こういうエピソードがあったらいいな、という想像は誰でも一度考えたことがあるんじゃないだろうか。
実際に文字にして形にして二次創作という形を帯びたそれは自分の熱量だけで書き上げられたもので、正直自分以外は意味が分からないものだった。
でも正直それでいいんじゃないかという思いはある。
そうして、そういう「好き」という感情だけで突き進んできたのが、私が生きてきた同人世界であり、オタクの二次創作やパロディだった。

最近は「解釈」と呼ばれるものが界隈には毎日のように流れてきている。
この解釈というのは、狭義としてキャラクターや世界観をどのように捉えているのかという意味があって、解釈戦争の火種は常になくならない。
逆を言えば、同じ出来事があっても、個々の捉え方次第で全く違う見え方ができる。
二次創作の醍醐味だ。自分はそうなんだと額面通りに流していたセリフの一文が、別の見方からすれば深い意味を持っている(のではないか)と解釈をつけられるのはとても見ていて楽しい。
二次創作する生き物は僅かな痕跡を辿って、一つの結論を導き出す。もしくは、大きな世界観の流れから一つのセリフの持つ意味合いを考える。
多かれ少なかれ二次創作を行う人間は何かしらのセリフの裏を読むことや、思考を巡らせることが好きな生き物ではないかと思っている。
「言葉にできないけどこういうところが萌え(今でいうクソデカ感情とかエモってやつ)なんですよ!!!」
という思いが強くなって極まった時に、耐え切れなくなって何かを表現しだす…という流れがあるんじゃないかな~と思っている。


話は変わるけれど、自分の推しカプがマイナーだと言われたことはないだろうか。
私はある。たくさんある。論拠を並べ立てて、ここに二人がこのコマにいるんだよ!このセリフが!!ここが!この描写が!!!と原作の描写を抜きかきするだけでは飽き足らず、二人の誕生日の共通点だのホロスコープだの姓名判断だの誕生花だの調べ上げて「これがこうで!こう!!!」とか言い出すのでその都度必死だなと憐れまれる。
ここ何年かでハマったカップリングやコンビも「マイナー」であると言われるものばかりだった。
でもちょっとまって?公式で絡みがあるし、何より会話もしているよ?それにお互いの印象についても語っているよ?
確かに自分の萌えがなければ傾かないだろうけど、マイナーと呼ばれるほど?と疑問を持った。

肌感覚なのでソースも何もなくて申し訳ない話だけれど、「本編でこんなに絡んでいるのになぜこの組み合わせが少ないのか??」と思うことはままある。
その肌感覚というか、自分と世間のズレを辿っていくと、マイナーカプは、15年前ならマイナーとは呼ばれなかったのではないかと考えるようになる。

いい悪いの話ではないけれど、自分より世代が下の人たちと話すと「効率」とか「要領」という言葉をよく聞く。
カップリングも、きっと効率と要領に置き換えられてきているんだろうな、と。
公式で明言されているカプがあれば、それが一番楽なんだろう。思考も解釈も必要がない。本編だけの言葉で納得できる。
twitterで流れてきた断片的な情報がバイアスをかけて、そのバイアスで本編に触れれば、解釈をしなくてもあるものをそのまま享受できる。なんてコスパがいい楽しみ方なんだろう。
そうして楽しめることはいいことだとおもう。モノにあふれたこの世界で思考する時間が現代人には足りないから、効率的に、思考せずに楽しめるものというのは必要だ。

だけど、悲しいかな、思考をすることが楽しいと知っている人間は、切ない話になってしまう。

当りまえのはなしだけど、思考を全くしない人なんていないとも思っている。だけど、思考することの楽しさが理解できない人もたくさんいる気がする。
世界を自分の言葉でとらえて、キャラクターと向き合って、彼らの世界を理解する。人間性を理解するために、視点は一つでは足りない。
たくさんの意見や背景をつなぎ合わせて、関係性を踏まえて、そうして浮かび上がってきた一つのキャラクター、その言葉や行動を噛みしめてほしい。その楽しさを知ってほしい。
自分の解釈について「そうじゃないよ、違うよ」と言われたときに、「あの人はわかってくれない」ではなくて、「どうしてそう思ったの?」と聞けることが楽しさでありオタクのコミュニケーションだ。キャラ解釈とカプについて考えて、押えられない思いをtwitterにたたきつけて、こじつけにも似た妄想を解釈と括るオタクの会話が、私は好きだし、そこから生まれるものは何でも貴いと思っている。


最近、二次創作であっても、公式通りの「正しさ」を求められている気がしていた。
そんなものない。
誰かが幸せだと思って作った作品を、100人が100人正しいと受け取るわけがない。自分の作品が否定されることをどうして恐れていたんだろう。
書いたカップリングに、感想という答えを自分が求めていた時に、とても寒気がした。
あんなにも自分の解釈をもって、理想の空想を描くことに躍起になっていた自分が、二次創作での正解とかそういうものを求めて忖度していた事実に、何に気を遣っていたんだろうと。
冷え切った文章を見て、誰かが喜ぶ自分の”解釈違い”を量産していることが、疲れていたことに気付いた瞬間、なんだかとても疲れてしまった。

同時に、少しだけ自分が年を取ってしまったんだなと思った。時代に取り残されて、古と呼ばれる人種になっていく。
じっくりと時間をかけて「解釈を語り合う」というのはもしかしたらもう時代遅れなのかもしれない。それよりも、瞬発的な萌えを共有できるのが、今の時代のオタクに求められているスキルなのかもしれない。


令和の時代の攻めはどうなっていくんだろう。スーパー攻め様がネタにされる世界を見ながら、リテラルのゆるいものわかりのいい攻めが主流になってくる時代を、私は生き残れるんだろうか。
そんなことをショタ美少年受け、年上×年下が好きなわたしはおもう。