愛へ導くカネコアヤノとの出会い
今一度カネコアヤノについて考えてその気持ちを留めておこうと思う。留学中ということもあり、昨年11月の武道館公演以来距離を取っている今現在、彼女に対して思うことがきちんと湧いてくる気がする。
大学に入って間もない2019年5月、大きな憧れを抱いて出てきた東京の小さなワンルームで、誰の目にも触れない自分だけの基地のような狭い部屋の、ニトリで10分悩んで選んだカーテンのそばに寝そべりながら出会った「愛のままを」という曲が僕を恋に落とした。始まりは穏やかだった。平生、何かに恋に落ちる時のスピードは速い僕が、その時ばかりは緩やかに、まるで胸の一番奥深くにある泉に一つ滴が落ちてその波紋がじわじわと広がっていくように恋に落ちた。穏やかなものだった。梅雨前のよく晴れた心地のよい日だった。
それから彼女の楽曲を聞き漁ったか、というとそうではなく、その当時よく聞いていた楽曲をまとめたプレイリストに「愛のままを」と「祝日」をぽいっと入れて、シャッフルリピートで流れてきたときに聞くというような、配信世代の寵児のような聞き方で彼女の楽曲と接していた。
転機は9月に起きた。前作”祝祭”以来およそ一年半ぶりのアルバム”燦々”がリリースされることになった。当日18日午前、僕は新宿にあるタワーレコードにいた。リリースされたばかりのアルバムを手に取り、直後レジに向かい購入するのに、スマホで聞けるのに(なんなら来る道すがらで聞いてきたのに)、レジ前に大きく展開されたカネコアヤノブースで一人試聴をするなどして胸の高まりに油を注いでいた。インストアライブは午後8時。会計の際レジで受け取ったステッカー手渡し会のチケットに手汗がしみこまぬよう黄色と赤の袋に滑り込ませ、その時間を待った。
その日はリリース日とあって、フル稼働のカネコアヤノ、インストアライブ前に出演したFm yokohamaのラジオ番組を新宿の小田急百貨店10F、トイレ近くの文房具店が見えるベンチに腰掛けて聞いていたのを今も憶えている。周りの「こう答えてほしい」という期待が透けて見える質問に対しては常に慎重に、自分の言葉を探して答える人だなあ、とラジオの受け答えを聞いて思った。そしてどうして昼下がりにやっているFMラジオのおじさんDJはどうしてああも金太郎飴のように画一の陽気さなんだろうか。(これは今思っていること)
時刻は午後6時少し前、ウィンドウショッピングをしていても心が浮ついてどうもピントが合わない。西口のブックオフの100円コーナーをざっと見てからタワレコへ向かうことにした。店に着くと、既に店の一角ではライブ用のステージがセットされ、2列ほどの観客がその時を待っていた。(2時間前で!?)急いでトイレを済ませ3列目に立った。最前列には小学生にも満たないような女の子と父親?がいた。他には真夏に苗場に一人で行ってそうなイケオジ、日本の”フリーランス”黎明期からフリーランス然とした服装や振る舞いを固持し続けてきたイケオジたち(ほぼ同義)が列をなしていた。
気づけば時刻は8時となり、振り返れば視界に収まりきらないほどの人々が僕の後方で彼女のステージを待っていた。そして会場の緊張感で覆われた静かな熱気を荒立てぬよう何の前触れもなく、ぞろぞろと4人のバンドメンバーが出てきた。その振る舞いはバンドマンというよりは演奏家と呼ぶにふさわしい控えめなものだった。まるで今から奏でる音楽が主役で、アーティストとしての人となりとそこで立ち上がる音とは別物だと語るかのような立ち振る舞いだった。
一音目が鳴った瞬間、全身が釘付けになった。ステージまでの5mほどの距離のこと、僕の視界に映った観客越しのステージ、その実像すべてを正確に捉えられないほどに食らってしまった。ピンクのチェックのパンツを履き、カブトムシのようなチャーミングなギターをか細い腕でかき鳴らす彼女が鳴らす音と僕とが一体となり、毎秒毎刹那居ても立っても居られなくなるほどの強い実感に包まれたライブだった。ライブ中の表情、息継ぎ、そんな些細なことは覚えているのに、ライブの運びや周囲の状況に関しては一つも記憶に残っていない。残念なことにその後のステッカー手渡し会のことも、自分が実際にそれに参加したのかさえ記憶からこぼれ落ちている。(落ち着くために京王線のホームで橋本行きを2本見送った。相当なことだ。)
その日からもうすでに3年以上の月日が流れている。その後もカネコアヤノは精力的に楽曲を発表し、ライブを行っている。心から感謝している。新曲が出るたびにしがみつくように聞いては、もっと聞きたい、生で聞きたい、朝に、昼に、夜に、明け方、家で、誰かと、ひとりでに、あー聞きたい!と思わされる。不思議なパワー。うん、カネコアヤノには不思議なパワーがあると思う。
不思議なパワーを感じさせる要因として、「語らない強さ」と「音楽への純真さ」の二つがあると思う。
彼女は多くを語らない。ギターを持ってステージに立ち、あるいは椅子に腰かけ、全身全霊マイクに向かって歌いギターをかき鳴らす。そしてそれだけで観るものに彼女のしていることを分からせることができる。曲を作り発表し続けること以外に補足や意味づけの必要ないことをいつもその活動でもって体現している。
表現者としての彼女は、その歌詞世界に透けて見えるように、日常生活の不調とその救済としての愛について歌うことが多い。
それはいつだってまっすぐで、慈愛に満ちていて、誰しもを包み込んでしまうようなはかりしれない抱擁力を持つ。ただ、ライブに一度足を運べばわかるように、彼女は決して多くを語らない。MCはほとんど行われず、滞りなくライブは進行する。曲の合間にチューニングが始まれば、スピーカーから放たれる微かなノイズと、アンプの音が切られたエレキギター本来の音のみによって会場は支配され、まるで緊張という糸で織られた一枚の布のような一体感が生まれる。誰かの鼻をすする音でさえそこに居合わせるすべての人に届いてしまうような空間がそこにある。しかし糸が切れることはない、そこに集った人たちは〈カネコアヤノの歌を、演奏を聴く〉という一つの目的の元で強く縫い合わされているから。何も語らないことで僕たちは、彼女が唯一彼女の言葉を紡ぐその演奏の中だけで彼女と邂逅することを求められる。神秘的とさえいえるその空気感、僕は恍惚と歓びのあまり、まるで悔しいことがあった時のように涙をこらえるのだ。それはしあわせというより、日々退屈と寂しさと一喜一憂とを抱える日常そのものに似ている。一つの瞬間に、一つだけの思い・気持ちが存在することなどありえないことをその時僕は知る。それはとてももどかしいことのように思える。だけど曲の中、あるいは外、彼女とふと巡り合えたとき、(それは地下鉄の中だったり、いまにも読むのをやめてしまいそうな退屈な本の中だったりする)いつだって複雑で難解な心、他者、社会、そのネットワークの中で生きる僕たちが唯一よすがにできるのは「ここには愛がある」と安心できる場所であることに思い当たる。彼女にはそんな場所へと導く不思議なパワーがある。
彼女の音楽活動は常に止まることなく動いている。レコーディングで使用する伊豆スタジオの写真がSNSにアップされ始めると新曲を期待し、そうかと思えば新たなライブやフェス、イベントへの参加が次々に発表される。まさに精力的で、全エネルギーを音楽家としての活動に注いでいるような印象である。そこには一貫性がある。「ブレない」や「芯がある」では片づけられないカネコアヤノらしさというのが確かにそこに存在している。しかしそれらは我々が望むものと必ずしも符号するものではなく、仄かな裏切りを常に孕んでいる。胸を甘噛みする新鮮な何かがいつもあって、だからこそ僕は注意深くならざるを得ない。僕たちが彼女と出会えるのはいつだって音楽を通してだけである。そして彼女はこれまでも世間の抱くカネコアヤノ像に一定の距離を取りながら、ただ曲を作り僕たちの前に立ち続けてきた。
昨今ではアーティストにとどまらず、俳優やお笑い芸人など、表舞台に立つ人々が裏側を語るコンテンツのドキュメンタリー化が加速していると聞く。創作の裏側やヒストリーを知ることで我々はより強く彼らに共感することが可能になり、そこで得られる感動も一際大きなものとなる。これは虚構を前提に成り立ってきたエンターテイメントが人々に看過されづらくなっていることの裏付けだと思う。SNSの普及によって僕たちは表舞台に立つ人をより身近に感じることができるようになった。日々何を着て、何を食べ、どこへ行ったか、リアルタイムに真の情報が次から次に流れ込んでくる。(あくまでリアルタイムという名目で)僕たちはそうした情報を親密さと取り違え、虚像としての彼らを僕たち自身の中に作り上げている。表舞台に立つ彼らの裏の顔を熟知したように錯覚している僕たちはそうしたかりそめの真の姿を、表舞台に立つ彼らにも求めるのだ。見たい彼らを見られると期待して。
カネコアヤノの場合、彼女の素顔ははっきりと見えてこない部分がある。それは彼女が自身について語らないことが大きな要因であろうし、彼女のキャパシティにかかわらず、意図的に僕たちから一線を引いているようにさえ感じる。だから3年間彼女の音楽や情報をリアルタイムで追ってきた僕にさえ、他のアーティストに関して知っているようなプライベートな情報というものをほとんど持ち合わせていない。(最近どんな映画を見て、どんな本を読み、得意料理は何なのか。猫を飼っていることしか知らない。)そうした情報が必要不可欠化と言われれば決してそうではないが、誰かを好きになるときに共感というものが発揮する力というのは絶大で、それを知っている僕は好きなアーティストの聞いている音楽、読んだ本、人生を変えた映画(という雑誌への寄稿なんかがあれば)飛びついて吸収してきた質だ。だけど彼女は、彼女の作ったいわば聖域のようなものの中で音楽をひたむきに作り届けている。だからこそ邪心なく僕の心に届くのだ。音楽の中でだけ彼女と運命的に出会い、言葉をもらい、また姿を消す。生の演奏が聞けるライブというものはここで大きな意味を持つ。カネコアヤノは音楽だけを期待させ、仄かにその期待を裏切りつつも絶対的な安らぎをもたらし、また聖域へと帰っていく。まるで天使のようなその活動が僕を虜にしてやまない。
散りばめられた引っ掛かりのない言葉たち、エフェクトのかかったギターの音の裏に隠れた正直さ。すぐに分かったような気になれる。だけどそのまま放っておくことはできない。僕たちのあるべき姿をカネコアヤノは歌う。
「ここには愛がある」と安心できる場所へと導く彼女の楽曲たちを、お守りみたいな言葉たちを、僕たちは保護猫を初めてうちへ連れて帰る時のように大事に抱えてどこまでも連れていくのだろう。
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