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【教育観:6】本当の「多様性社会」とは~文部科学大臣杯と尾崎杯を振りかえって~

こんにちは、ないとぅーんです。

今回は去年の11月に出場した第68回文部科学大臣杯全国青年弁論大会尾崎行雄(咢堂)杯演説大会in相模原を振り返ります。


尾崎行雄(咢堂)杯演説大会in相模原
第68回文部科学大臣杯全国青年弁論大会

この二大会は今までの私の畑であった「大学弁論」とは違い、一般的には「社会人弁論大会」と呼ばれる大会です。

大学弁論が大体10分演説して、15分間の質疑応答があるのに対して、この2大会は、質疑応答の時間も設けられないまま、たった7分間で演説をしなければいけません。

文字としては、たったの2000文字。

この7分間で伝えきるために原稿を何十回も書き換えました。

 さて、今回のテーマは「多様性社会」でした。

「多様性社会」という言葉、最近結構聞くようになりましたね!
じゃあ、聞きますが、「多様性社会」ってどういう意味ですか?
どんな社会が多様性社会を体現した社会なのでしょうか?

私の問題意識はここにありました。多様性社会という言葉を使うのは簡単だし、何か自分の知らないことがあれば「今は多様性の時代だもんね~」で済ませられる、とっっても便利な言葉です。

でも、便利だからこそ、その意味を深く考えることなく私たちは濫用しすぎていないでしょうか。

確かに、物事を理解するという事は、少なからずその対象を区別するという事です。「区別する」とはその対象に「多様性」や「マイノリティ」というラベルを貼るということです。ここまでは確かに自然な事ですが、

その区別にどのような価値が伴うかを自覚しなければ、それは簡単に「偏見」や「差別」へと転落します。

じゃあ、私たちは社会の「マイノリティ」や「多様性社会」という言葉の意味をどのように捉えればよいのでしょうか?

続きが気になる方はぜひ原稿を読んでくださいね。
(個人の特定を防ぐため、一部原稿を当日の物から編集しています)

演題「一を知って、ゼロを知る」

「今まで隠してきたことを、どうか嫌わないで聞いてほしい…実は私、体は女性だけど心は男性のトランスジェンダーなの」

私の友人は家族にも親友にも言えなかったことを、とても辛い表情で私に教えてくれました。性と体の矛盾の苦悩により、明日を生きる希望さえ失った彼は、鬱になり、今日まで苦しみと共に生きてきました。
この苦しみは明日もずっと続いていきます。

 中でも、彼を最も苦しませたのは「周りの誰にも理解されないことでした。

現代には沢山の種類の人々がいます。私達は目の前に突如現れた、「異質な何者」かを何とか理解しようと「LGBTQ」や「障がい者」と名付け、マイノリティとして区別しました。

 しかし、その区別にどのような価値が伴うかを自覚しなければ、それは簡単に「偏見」や「差別」へと転落します。

これは私の友人がアルバイト先で上司に勇気を出して性自認を打ち明けた時の事。最初は親身になってくれた上司でしたが、次の出勤日には、突然彼を無視するようになりました。彼は悩み、苦しみ、そしてある日知りました。

上司がトランスジェンダーという存在自体に嫌悪感を抱いていたことを。

上司は彼を「お前は俺の嫌いなトランスジェンダーだ」と差別し、それ以上、彼を本質から理解することを辞めてしまったのです。

このような無自覚の偏見や差別は誰の身にも起こり得ます。そしてこの態度こそが、マイノリティの人々と対等に対話をする態度を奪っていくのです。彼の必死な上司への抗議も虚しく、職場をやめることを余儀なくされました。彼は絶望しました。

「こんな自分は誰にも受け入れてはもらえない」とより一層心を病みました。そして私は、その隣で「どうして彼がこんなに苦しまなければならないのか」悩み苦しむ5年間を過ごしてきました。

しかし、私の苦しみよりも彼の苦しみの方が何倍も苦しかったことは言うまでもありません。

私の考える多様性社会とは「誰一人置き去りにしない社会」です。どんな立場の意見も置き去りにせず、誰もが対等に対話できる社会こそが多様性社会の完成形なのです。

私は彼のようなマイノリティが淘汰され続ける社会を少しでも変えたいとずっと考え続けてきました。そして難産の末にようやく気が付いたことが有ります。

それは、相手をマイノリティと区別するということは、同時に自らを「マジョリティ」という特権集団であると思い込んでいるということです。 

でも、自分を社会のマジョリティだと錯覚している私たちだって環境が変わればマイノリティになります。

幼い頃、癲癇を患っていた私は、突然倒れ、頻繫に救急車に運ばれていました。私はまさに、学校や友人からの配慮を必要とする、マイノリティだったのです。

そしてその時の私は、「てんかん患者」以前に一人の人間なのに、いつ何時でも周りから「てんかん患者」として、過剰にマイノリティ扱いされることがとても辛かったことを思い出したのです。

私も最初は、彼に対して無意識の偏見を抱いていました。「自分は本当にこのまま彼を理解したフリを続けてよいのだろうか。」そう悩んだ時期も沢山あります。

でも、彼の性自認と向き合い続けて5年が経った今ようやく、私が彼に抱いた偏見は私が当時苦しんだ周りの人からの偏見とまったく同じ構図だという事を自覚したのです。てんかんを患っていた私とトランスジェンダーの彼は同じマイノリティだったのです。

実は、本当の多様性社会とは大多数の「マジョリティ」が一部の「マイノリティ」を理解、配慮することで成り立っている社会ではなく、たくさんのマイノリティ集団が交差しあって成り立っている社会だったのです。

自らをマジョリティだと思い込んでいる限り、相手のことをマイノリティという属性でしか理解することができないのです。

私たちはこの「マイノリティ」や「多様性」という言葉が与える危険性を考えることなく、乱用しすぎてしまいました。

 私はもうこれ以上誰も置き去りにしたくありません。

だから、相手の事情を、つまり相手の「1」を知ったとき、相手のことも自分のことも「ゼロ」から理解し直す心を持ちましょう。

そのためには、多様性やマイノリティという言葉が与える偏見や差別に責任と自覚を持つことが必要なのです。 

少し周りを見渡してみてください。この会場のどこかで私を見ている彼と同じように、置き去りにされている人があなたの隣にもきっといます。

あなただって、いつ置き去りにされるか分かりません。そんな社会、とても生き苦しいと思いませんか。この社会を変えるのは険しい道のりです。これから日本が歩む道は決して平穏ではありません。でも私たちが変わらなければ、社会は絶対に変わりません。

だからどうか、「一を知って、ゼロを知る」の心を持ってください。そして、このいばらの道を誰一人置き去りにしないよう、手を取り合って乗り越えていきましょう。




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