ドストエフスキー「罪と罰」のマルメラードフ

ドストエフスキー「罪と罰」の中で、マルメラードフという人物がでてくる。
彼は、娘ソーニャに売春をさせて、その娘の稼ぎで酒を飲むという父親だ。
しかし、僕は、マルメラードフが好きだ。
マルメラードフは、酒場で酔い、こう叫ぶ。


「神は唯一人で、そしてさばきにあたる人だ。最後の日にやって来て、こうたずねてくださるだろう。『いじのわるい肺病やみの、まま母のために、他人の小さい子供らのために、われとわが身を売った娘はどこじゃ?地上に住んでおったとき、酔っぱらいでやくざものの父親をも、その乱行をもおそれずに、気の毒がった娘はどこじゃ?』それから、こうもおっしゃるだろう。『さあおいで!わしはもう前に一度お前をゆるした…もう一度お前をゆるしてやったが…こんどはお前の犯した多くの罪もゆるされるぞ、お前が多く愛したそのために…』こうして娘のソーニャはゆるされるのだ…ゆるされるとも、わしはもうわかっとる、きっとゆるされるに相違ない。わしは先ほどあの娘のところへ行ったとき、この胸ではっきりとそれを感じたのだ!…神さまは万人をさばいて、万人をゆるされる、善人も悪人も、知恵ある者もへりくだれる者もな…そしてみんなを一順すまされると、こんどはわれわれをも召し出されて」、『そちたちも出てこい!』と仰せられる。
『酒のみも出てこい、いくじなしも出てこい、恥知らずも出てこい!』そこで、われわれが臆面もなく出て行っておん前に立つと、神さまは仰せられる。『なんじ豚ども!そちたちは獣の相をその面に印しておるが、しかちそちたちも来るがよい!』すると知者や賢者がいうことに、『神さま、なにゆえ彼らをお迎えになりまする?』するとこういう仰せじゃ。『知恵ある者よ。わしは彼らを迎えるぞ。賢なる者よ、わしは彼らを迎えるぞ。それは彼らのなかのひとりとして、みずからそれに値すると思うものがないからじゃ…』こういって、われわれのみ手に口づけして…泣きだす…そして、何もかも合点がゆくのだ!…そのときこそ何もかも合点がゆく!…だれもかれも合点がゆく…カチェリーナも…同様合点がゆくのだ…主よ、なんじの王国の来たらんことを!」

何が悪いのか、誰が弱者なのか、赦されるとは、何なのか。
ニヒリズムにみちた世の中で、思索する僕は、マルメラードフに、これを書いたドストエフスキーに、共感するのである。

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