縄文時代の春って、こんな感じかもしれない「梅之木遺跡」山梨県北杜市
初夏を思わせる先週末、私が訪れたのは、日本アルプスの山々を望む、標高約800mにある「梅之木遺跡」。
約5000年前の縄文時代の集落跡からは、150軒もの「竪穴住居跡」や「縄文の道」が発見されました。
現在は史跡公園として整備され、併設されたガイダンス施設では土器や土偶などを見ることができます。
山々と空と
薄曇りの遺跡からは、山々の稜線が薄墨で描いたように見えます。
「梅之木遺跡」は、100万~20万年前に火山活動でできた扇状地の傾斜面に広がっています。
緩やかな斜面は見晴らしがよく、遠くの雪を被っている山々までがうっすらと確認できます。
広い遺跡を歩き廻っているうちに、太陽が雲の間から覗き始めました。いくつもの層にある雲がどんどん動いていきます。
きっと縄文人も見たであろう、この大きな空。刻々と変わる空模様に、縄文人たちは、今日は遠出して狩りをしよう、あの山の麓に野草を採りに行こう…とか、一日のスケジュールを立てたのかもしれませんね。
竪穴住居&シーソー
ここには、竪穴住居と土坑(墓と思われる穴)が直径100m程の環状に並んでいました。中央には広場があり、そこでは祭祀などがおこなわれていたと考えられています。
現在ある5軒の再現された竪穴住居は、地元のボランティアの手で作られています。
木を伐り出し、木組みをし、屋根をふいて…大勢で汗を流し、試行錯誤しながら時間をかけて作られた竪穴住居は、その分だけ縄文時代を感じるものが宿っているように感じます。
今まで他の遺跡で見てきた竪穴住居よりも、背がちょっと低く横長に見えます。切り出した木の長さによっては、柱の高さも違ってきますよね。今更ながら気づきました。
竪穴住居は地面を掘り下げて、いわば半地下のように床面が地下にあります。ここでは約30㎝程掘り下げています。
入口から見たところ。梯子がかかっているのはロフト。
獣の肉やキノコなどを干したりと、食料の保存に利用していたと考えられています。
竪穴住居の傍にあったのは、木の股を軸にしたシーソー。
縄文時代の子ども達は、きっとこんな遊具で遊んでいたんでしょうね。
可愛らしい祈りの道具
住居跡から出土したのは「顔面装飾付釣手土器」。土器と言うものの煮炊き用ではなく、祭祀などで使われた「祈り道具」であると考えられています。
土器に付いた「顔」の思いっきりの笑顔が、幸せな生活があったことを伝えてくれているようです。
ここは日本遺産『星降る中部高地の縄文世界』の「三十三番土偶札所巡り」の15番札所でもあります。
5千年前の縄文の道
住居のある広々とした斜面の反対側には「縄文の道」があります。
その道を下ると、僅かな流れのある川に突き当ります。
その川の脇からは、礫と呼ばれる変色した石が見つかっています。これは石を使って「蒸し焼き料理」をした跡である考えられています。
縄文人は竪穴住居で炉に火を起こして煮炊きをするだけでなく、屋外で調理をすることもあったようです。
この屋外の調理場や日常に水を得るために、住居と行ったり来たりしたのが、この「縄文の道」なのです。
細い道を下っていると、栗やクルミがたくさん転がっていました。
ひょっとすると、これらは縄文の遺伝子を持っているかもしれませんね。
集落の終焉
約5000年前に栄えた集落でしたが、その後は気候変動によって気温が低下したことで、生活状況が変化していきました。
それまで主な食料であった栗やクルミが収穫できなくなり、そのかわりに「トチの実」を利用するようになります。
「トチの実」は食べるのにアク抜きが必要で、一週間ほど水につけておく必要があります。
ところが川の僅かな流れは、集落全員分のトチの実のアク抜きをするには充分ではありませんでした。。
やがて人々はこの集落を放棄して、1㎞離れた川の水が豊かな場所に新しい集落(上原遺跡)をつくりました。
集落の終わりは「生き抜くための集団移転」…ちょっと寂しい結末です。
空を見上げ、遠くの山々を望み、身近な木々や草花を見て…ここにはそんな縄文時代の生活が感じられるような、春の景色がありました。
参考資料
「梅之木遺跡展」ハンドブック 北杜市考古資料館
©2024 のんてり
<写真&文章は著作権によって守られています>
最後までお読みくださり有難うございました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?