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ヒップの共演

キュッと引き締まったヒップは、
縄文時代も憧れであった⁈

トップ画像は、山梨県の釈迦堂遺跡博物館の企画展「Dogù360°峡東の土偶」
のワンシーン。
2体の縄文土偶の半身像です。
共に山梨県甲州市の宮之上遺跡から出土した縄文時代中期の土偶です。

2体はまるで彫刻かのように、その肉体美を表現しています。
上半身や脚下部分が欠けてしまっていますが、残ったこの一部分から全体像を想像すると、均整のとれたカッコイイ土偶であったように感じます。

写実から大きく外れ、理想を追求し、計算されて作りあげられたかのようなフォルム。
このアスリートのような引き締まったヒップの造形は、果たしてどのようにして生まれたのでしょうか。

残念ながら、その大部分を失ってしまっているこの土偶たちからはそれを探ることはできません。

ヒントとなるのは、国宝 縄文の女神
縄文時代中期の東北時代を代表する土偶です。

<画像4 _ 13>展示作品は全てが国宝!時空を超えて名品が東京国立博物館に集結|ウォーカープラス

高さ45cmの超大型で、祭礼の際などのシンボルとして存在していたと考えられています。
河童形と言われる平な頭、顔の表現は無く、薄い板状の胴と腕は省略されています。どっしりとした太い角柱状の脚、そして特徴的なのは突き出たお尻です。
頭の先から足の先まで、寸分の隙も無いほどに余分なものをそぎ落とし、美しい立姿に注力して作られたように感じます。

さすが女神、と言いたくる神々しい姿!

そしてこの女神の突き出たお尻=出尻が、釈迦堂遺跡博物館の2体のお尻へと繋がっていったと思われるのです。


は何故、東北の土偶と似たものが山梨に?

縄文の女神の故郷は、山形県の西ノ前遺跡。
河童形の頭や板のような平たい胴部分は、女神の誕生前の東北地方の縄文前期の土偶の特徴を汲んだものです。

土偶は作り手の思いつきや、創意工夫だけで作られているわけではなく、その地域に伝わってきたものが時間の経過を経て変化し、それが人々の移動によって伝播されていくのです。

出尻ということに限ると、東北から北陸、中部、西関東へと伝えられました。現在でもその距離はかなりのものですが、例えば東北から西関東へ直接伝えられたのではなく、徐々に西方向へと伝えられたと考えられます。
恐らく交易のある場所との繋がりから、またその繋がりへという形で伝わり、その土地、土地の文化として発展したのだと思われます。

そして、それがそのまま伝えられたかというと、そうではないのです。伝えられていくうちに少しづつ変わっていく、そして原型とはどこか違ったものができるのです。
あるいはその地域において、〝もっと個性を出したい〟などと思うアーティストもいたかもしれませんが⁉


フリーペーパー縄文ZINE
13号の「不器用な縄文人」の記事に〝伝言ゲームの失敗〟という内容で、これに関連する内容が書かれています。


このように、縄文の女神出尻が山梨県まで伝えられたようですが、施されている文様が少し違っていました。


渦巻は欠かせない!

縄文の女神の下腹部には大きな五角形があり、内側を細かい縄文で埋めています。その外側から側部にかけては幾何学文様、お尻と脚の前後は横に規則的な線文様をつけています。

文様も伝えられていくうちに、徐々に変わっていった考えられます。
釈迦堂遺跡博物館の2体の土偶の文様と共通するのは幾何学文様の中の渦巻です。
渦巻の文様は古くから信仰や呪術的な意味が込められていたと言われ、日本のみならず世界各地で使われてきました。
どこか神秘的なこの土偶たちにも、そういった大切な意味が込められた渦巻はマストアイテムとして、施されたのかもしれません。

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今はヒップだけになってしまった2体ですが、縄文の女神の流れを汲んだと思われる土偶です。
そうと知ると、益々果たしてどのような土偶であったのか、知りたくなりますね。
縄文の女神のように凛とした佇まい?それとも…。


最後まで読んでいただき有難うございました☆彡

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