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あん時のレバ刺

 幼馴染みの角田郁夫とは、同じ学年だったが生まれ年が違った。昭和35年の5月生まれの俺の10ヶ月後36年3月。早生まれなのに俺より遅くこの世に生を受けた郁夫は、蒙古斑が取れるのも字を覚えるのも誰より遅く、補助輪なしで自転車に乗れるようになったのに至っては一つ違いの弟より更に後だった。

 いつ頃から誰が言い出したかは忘れたが、常に誰かの尻についてまわる郁夫は廻りから金魚のフン、略して「金フン」というあだ名で呼ばれるようになった。
 鬼ごっこやだるまさんが転んだに興じる時「金フン郁夫」は、一度鬼になると最後まで鬼から逃れられず、鬼のまま半べそをかいて勝手に家に帰ってしまうため、必然的に奴が帰るのが鬼ごっこの終了の合図になった。そのくせまた次に鬼ごっこをし始めると、前のことなどすっかり忘れて何食わぬ顔で仲間に加わる懲りない野郎、それが郁夫だった。
 だが誰一人そんな郁夫のことを咎める仲間はいなかった。みんなにとってそれが郁夫であり、ある意味で自分の鬼を回避するための大事な1ピースでもあったからだ。
 
 そんな郁夫や俺(村田大介)が暮らした街は、第二次大戦の戦禍を免れ、空襲から焼け残った貧乏長屋の見本のような場所で、社会の底辺で生きる者の吹き溜まりでもあった。
 こんなことを言っても強がりにしか聞こえぬかも知れないが、その街での暮らしは、60年の人生の中で一番楽しい時代と思えなくもない。廻りには沢山遊び仲間がいて、そこで暮らす人は皆人情味に溢れ、貧乏生活をも笑い飛ばすような人ばかりだった。なぜなら殆んどの家族が同じような極貧生活だったため、自分の貧乏を見逃していたせいかも知れない。
 
 二間(3,5メートル)にも満たない幅員で、その上未舗装の路地の両側に同じ造りで軒を連ねた借家には、夏でもステテコの上にラメ入りの腹巻きを巻き、蛇皮もどきの鼻緒の雪駄をズリズリ引きずりながら闊歩するやくざのオッチャン。
 聞いたこともない念仏を唱えながら、時折病的にしか聞こえない咳き込みを繰り返し、滅多に姿を見せないので渋々大家が
「おい、婆さん生きてっか?」と家賃の取りっぱぐれを心配してだけ声を掛ける梅干しばばあ。
 
 とまあ、変な奴らばかりが暮らしていた。
 
 チンピラヤクザのオッチャンには、いつも決まって黄昏時にご登場願った。
 特に夏場になると七分のダボシャツの袖口から、赤色やら青色やらの倶利伽羅モンモンが、オッチャンの希望通りこれ見よがしに顔を覗かせた。
 あるときなど左手の甲と小指に、ボクシンググローブばりの包帯を巻き付け、いつもとは違う苦悶の表情を浮かべるオッチャンに向かい「金フン」郁夫が
「どうしたん?痛そうやね、包丁かなんかで切ったん?」
 と、聞いてはならないことを口にすると
「黙っとけ 大人にはなあ、大人の事情ちゅうもんがあるんや、あほんだら」
 居合わせた全員が大爆笑の中、  ばつが悪そうに肩をすくめ、逃げるような足取りで長屋の路地を通りすぎるオッチャンの後ろ姿に向かい一緒に笑っていたヤンキーの草分け、エミちゃんが
「子供に嘘つくな、下手打ってエンコ跳ばされたって正直に教えてやれや」
 と言う、訳のわからぬ専門用語を並べ立てるのを、全員があっけに取られて聞いたことも思い出深い。
 
 だがそんなオッチャンのことを皆決して嫌ってはいなかった。 当のオッチャンも心得たもので、機嫌のいい時は子供の俺らに対してだけはいっぱしの大人気取で
 「おい少年、もうじき暗なるぞ。母ちゃんに尻っぺたひっぱたかれる前にとっとと家帰れ!」
とかなんとか言いながら、夜な夜なケバい化粧でいそいそとご出勤するお水の姐さんにするのと同じウィンクを、すれ違いざまに投げかけるのだった。
 
 郁夫家族の住まいは長屋の東の資材置場の、更に奥に建つ掘っ立て小屋だった。
 「郁ちゃんー 遊そーぼー」
学校から帰り、日課のように毎日奴の家を訪ねるとき、決まって風通しのよい郁夫一家の掘っ立て小屋の中から、奴の母ちゃんの
「このバカ、ちったあ勉強せんか! そんなことじゃ父ちゃんみたいなな陸でなしになっちまうぞ」
という怒鳴り声が誰憚ること無く響いた。ダミ声の郁夫の母君はヘビースモーカーでもあり、落ちこぼれの俺ですら「こんな家に生まれんでホント俺は幸せものや」と思わずにいられないような 
 そんな母親だった。
 隣接する奴の家の何倍もの敷地を占める野天、すなわち屋根すらない資材置場には、丸太足場の材料が、山のように積み上げられていた記憶がある。
 そう言うと、郁夫の親父の稼業は足場屋のように聞こえるかもしれないが、実際の職業はペンキ屋だった。
 当時の塗装業者は、自分達の手で仕事に使う足場を組むことが当たり前で、肝心のペンキ材料より足場材の丸太が敷地のより多くを占めていた。
 資材置場は、近所の子供らの格好の遊び場所でもあった。積み上げられた丸太の間に足を取られ酷い捻挫をするものや、資材の山の上から転げ落ちて頭を切り、辺り一面を血の海にする子供が年に一人や二人は必ずいた。だがそこで遊ぶ子供はいつまでも後を経たなかった。
 危ないことに自分の限界を越えてチャレンジし、それを乗り越えたときの優越感を肌身で感じる格好のフィールド、それが郁夫の家の資材置場だったからである。
 
 資材置場を挟んだ反対側には見るからにみすぼらしいベニヤ板製の、子供が作る秘密基地程度のバラックも建てられていた。
 
 その後知ったのだが、驚いたことにそこで暮らす人がいた。
 その小屋の住人の名を、朴(パク)さんと言った。小学生低学年の俺らよりも一回り大きい程度の背格好の朴さんは斜視だが、当時の俺がそんな御大層な病名を知るわけがなく、回りの大人達が彼のことをロン○リの朴と言ってからかうのを聞いて、両の目の視線が合わない人のことをロン○リと呼ぶんだと知らされた最初の人だった。
 

 朴さんはつまり、郁夫の親父の使用人だったのだ。
 
 昼中に朴さんと顔を会わせることはまずなかったが、俺と郁夫兄弟以外のガキどもがたまに朴さんの姿を見かけるといつも遠巻きに
「やーいやーいチョン公、早う国に帰れ」だとか
「チフスが移るで近寄るな」などと言って馬鹿にした。
 悲しい目をした朴さんは決まって、覚束ないイントネーションのおかしな日本語で
「オマエ チョーセン チョーセン ヒトパカスナ!」
と子供相手に、ゆでダコのように頬を赤らめて言い返すのだった。
 

 1960年代前半の日本は、高度経済成長の真っ只中にあり、一般家庭にも三種の神器と言われた白物家電品。 冷蔵庫、洗濯機、テレビジョンがかなり普及し初めていた。
 しかし周りのどこにもそんなものを買う余裕がある家などあるはずがなく、たらいと洗濯板、氷屋が配達する角氷を冷媒として使った木製の氷冷蔵庫が現役だった。
 ましてやそれ以上に内風呂を備える家など無きに等しかったため、家から半径1キロ圏内に、銭湯と呼ばれる公衆浴場が3軒も営業していた。
 その内の一軒は目と鼻の先にあり、映画のワンシーンに登場しそうな佇まいを呈し多くの人で賑わっていたが、俺が小学校に上がった頃、番台の婆さんが、便所の中でポックリ逝っちまったため廃業に追いやられた。それからというもの行きつけの風呂屋を失ったその店の常連客は、大通りを隔てた隣街の、冬場は湯冷め必至の銭湯通いをせざる得ない状況に追いやられた。

 また、当時の銭湯や景気のよい飲食店には、早くからテレビがあり、家にテレビがない子は皆、7時から始まる30分枠のアニメを見るために銭湯へ集結した。
 
 「土曜日は巨人の星で木曜はタイガーマスク、火曜日にはキックの鬼
見んといかんで風呂の日は火、木、土だ。 郁ちゃんもそうしろや!」

 「大ちゃん、俺水曜の快獣ブースカも好きなんだけど」

「し、しまったブースカのこと忘れとった(w)」
 
 学齢に達した俺や郁夫が、学区の小学校に入学してから出会った新興住宅地に住む中産階級のボンボン達は、「オメーらの家にゃ、テレビも冷蔵庫もねーんだってな、可哀想に」
といって俺らを侮蔑した。
 テレビも持てない暮らしぶりのガキ共は小学校に上がることで、自分のおかれた家庭環境が、世間の平均よりかなり下だと言う事実を知らされるのは、日本の各地で見られた現実かもしれない。

 だが俺らは、そんな言葉にめげるほどやわじゃなかった。

「家に無けりゃあ、風呂屋で見たらいいだけの話だがや。何を偉そうに抜かしてけつかる?」
 俺自身風呂屋へいく主目的は入浴などでなくテレビ鑑賞だったので、もうこの頃には親抜きで風呂屋へ通うことなど当たり前だった。

 時に入浴などそっちのけで皆テレビに見いってしまい、終いには肝心の風呂へ入らずに帰宅したのをかあちゃんに
「何しにお前は風呂屋へ行った?手拭いが濡れとらんで丸分かりだぞ」
といつも見透かされていた。
 
 風呂屋の脱衣場は、人気のテレビ番組が放映される夜には立ち見席まで現れることもたびたびだった。正にパブリックビューイングの魁と呼べる光景そのものだった。

 実は一つだけ厄介な問題もあった、それはし烈を極めるチャンネル争いにどう立ち向かうかと言うことだ。プロ野球中継が始まると、ハゲ茶瓶の親父が否応なしに、誰に断りもいれずチャンネルを替えたし、ボクシングの世界線が放映される晩は、端からマンガなど見させてもらえるような雰囲気でなかった。

 湯冷め覚悟で向かう大通りの反対側の銭湯には露天風呂があり、湯船の廻りは奇岩怪石で縁取られていた。
 それ以来、困った問題だったはずの新たな銭湯通いは、俺らにとって、遠い昔に一度行ったきりの海水浴気分を、思い出させてくれるワンダーランドへと取って代わった。
 
 通いなれた銭湯が閉店したことで、危ないからもう一人で行っては行けないと言われた大通りの向こうの銭湯に親に黙って向かったある日の夕方、その銭湯の下足箱の前で、偶然にも朴さんと出くわしたことがあった。

 「ダイチャン、キョウ イクオイッショ チガウカ ?」
 朴さんが俺の名前を知っていたことが不思議でならなかった。
 実を言えば俺が、朴さんのことを他の奴らと同じように子馬鹿にしなかったのは、単に朴さんの風体が怖かったからなのだが、誰にもそんな気持ちを伝えることはなかった。

 鍵付きのロッカーなどどこにもない当時、藤で編んだ脱衣篭の中に自分の衣服を綺麗に畳んで納める朴さんにふと目が行った時、朴さんの仕事で鍛え上げられた体に思わず目をを奪われた。痩せぎすの骨と皮だけのように見えた朴さんの体は、あにはからんや無駄な贅肉など一切ない引き締まった体躯だった。だがその時そんな俺の視線を察した朴さんは、さほど大きくもない日本手拭いを首から背中に回して、そそくさと湯船に向かった。

 俺は、朴さんの背中にあるおびただしい数のケロイド状の傷跡を見逃さなかった。切り傷でも火傷でもない、鞭か何かで打たれたような傷跡は目を覆いたくなるような酷さだった。
 戦前に朝鮮から連れてこられ、徴用工として働いた朴さんは、開戦と共に働き口を終われ、ホームレス同然の暮らしをするところを郁夫の父ちゃんに拾われたのだと、後で郁夫本人から聞いたが、背中の傷の曰くについては、何も聞かされていないようだった。異国の地で戦争に巻き込まれ、人間扱いされずに生き延びてきた朴さんの人生とは、如何許のものだったのだろう。

 目を閉じたまま、大浴槽の湯船に首まで浸かり何事か物思いに更ける朴さんを無視するかのように洗い場の椅子に腰掛け、泡立ちの悪い固形石鹸を力任せに頭髪に擦り付けて洗う私の隣に、いつの間にか並んで座る朴さんの姿を立ち上ぼる湯気の向こうに見つけた。

 「オマエ バンメシ クタカ?、オッチャント バンメシ イクカ?」

 唐突な朴さんの誘いに返答に困り、考えあぐねた末に出した俺の結論は

「母ちゃんに黙ってお風呂来たんで、あんまり遅なると母ちゃんに…」

「ソカ ザンネンダナ マチイチバン ヤキニク ウマイトコ スグソコ マタコンドナ!」

「焼き肉?」
 突然耳に飛び込んだ聞き捨てならない誘惑の言葉に

「一時間ぐらいなら大丈夫かな?」

「ヨシ キマタ ヤキニク イコウ」

 ご都合主義な俺の返事に嫌な顔一つ見せず朴さんは、上がり湯を済ませてそそくさと着替えをし、風呂屋を後にして先に立ってどんどん、人一人がすれ違えるかどうかと言う狭い閑所を進んでいった。
 ついていくのに必死の俺が着ていたセーターは、後ろと前が逆だった。

 通りの向こうの入り組んだ路地の先の集落?そこは両親から絶対に一人で行ってはいけないと何度も聞かされた場所だという記憶がよみがえった。

「大介 お前子供同士で絶対通りの向こうに行くなよ、人さらいにあって一生帰れんくなっても知らんぞ」
「あそこは朝鮮人の部落だ、犬なんか迷い混むと食われちまうらしいぞ」
 口が酸っぱくなるほど父ちゃんから聞かされたその言葉が脳裏をよぎった矢先、前を歩く朴さんが振り向き様に
「ツイタ ココ ハヤク ハヤク」
 手招きして私を誘いいれる朴さんの頭上に、日本語で「焼き肉 新井」その横に棒と丸が入り混じった見慣れぬ文字が並んで書かれた看板が掛けられていた。

 「犬の肉なんか食わされたらハライタどころの騒ぎじゃねえだろうな…」
 もう俺の頭の中には、野良犬の首をちょん切って料理する、極悪非道の料理人の顔しか思い浮かばなかった。

 引き違いの磨りガラスの入った木戸を朴さんが勢いよく開けると、その向こうに広がる光景が、立ち上る煙にかき消されはっきりと見て取れなかった。ただその中から、人の賑わいと屈託のない笑い声が鳴り響いていた。
 朴さんに導かれ、畳一畳はあろうかという鉄板の前の長椅子に腰を下ろすと、透き通るような白い肌と、切れ長な目尻が印象的な女の人が湯気の向こうから満面の笑みで私たち二人を迎え入れた。
 そして朴さんよりもずっとずっと流暢な日本語で
「いらっしゃい、朴さんの初めてのお連れさんが、こんなにかわいい坊やとは、おばちゃんホント嬉しいよ」
 そこでは俺と朴さん、そしてオモニさんという名字のお姉さんが話す会話以外、抑揚のない日本人の耳には喧嘩腰にさえ聞こえる言葉を、居合わせた人全員が口にしていた。
 暫くして、オモニさんが最初に俺に差し出してくれた一品は、とんがらしで真っ赤に染まった白菜漬けだった。見るからに辛そうなその白菜漬けを
「私のチムチ漬けは旨いよ、そんなに辛くないから安心しておあがり」
  恐る恐る少しづつオモニさんのキムチに手をつけると、言われた通り、辛さよりも絶妙の酸味と相まって、得もいわれぬ複雑な旨味が口の中一杯に広がった。
 メインの鉄板で焼かれるお肉は、とんちゃんと呼ぶ豚の内蔵だということだが、ニンニクの香りが肉の臭みを消すからなのか絶妙のアクセントとなり、一緒に焼かれたもやし白ネギ共々、いくら食べ進んでも箸が止まらぬ「嗜好の一品」だった。
 夢中になって食べ続けるうち、知らぬ間に朴さんの前のカウンターには、小皿に盛られた、茶色い生肉とおぼしき肉がが運ばれていた。その時俺はその肉もこれから焼いて食べるものだと信じ朴さんを見つめると、思いもよらぬことにそのままその艶やかな薄切りの生肉を口に運びはじめた。
 呆気に取られて凝視する俺の姿に朴さんは
 「ダイチャンモ クウカ? キモサシ コレ ナニヨリ イチバン マチガイナイ!」

 「き、肝刺?」
朴さんの言う意味が理解できなかった。あの生臭くてとても人間の食い物と思えない、唯一嫌いな食べ物といっていいレバーを、このオッサンは生で食っていやがる。
「無理です、肝の刺身なんて見るのも嫌です」
朴さんは、もっともの話だと得心がいったのか、その後俺に無理強いすること無く一枚一枚噛み締めるように肝刺を堪能していた。
 朴さんに限らず、他の客の多くが肝刺を注文する光景が、翻って俺の好奇心を擽った。
 朴さんの皿の肝刺があらかた無くなりかけたことに気がついた俺は、恐る恐る
「一口だけもらっても構いませんか?」と思いきって訊ねた。
 そんな我が儘に快く、笑ってそっと差し出してくれた皿の上の最後の一枚の肝刺は、胡麻油と丁度いい塩梅の塩加減に仕上げられた、今までー口にしたレバーとは全く別次元の食べ物だった。
 甘い、肉が甘い。そして噛めば噛むほど旨味と酷が広がり臭みなど一切感じない、レバーの概念を根底から覆す味。
 気取って言えばまさにそんな味だった。
 「かあちゃんが作るレバニラ、もといニラレバ炒めは、もう臭くって食えたもんじゃないけどこれは別物…俺こんな旨いもん生まれて初めてです」
 オモニさんは
「坊やそんなこと聞いたらあんたのかあちゃん泣くよ、ここは商売だから旨いものお客さんに食べさせて当たり前さ、坊やの健康を思って作ってくれるかあちゃんのレバニラ、嘘でも美味しい美味しいって食べてあげるのが親孝行ってもんだ」
 その後オモニさんはたいそう喜んで
「はいこれ大サービス、そこまで気に入ってもらったんじゃこのまま返す訳にゃ行かないもんねえ」
 といいながら新しい皿に盛られた一 人前のレバ刺を提供してくれた。
 大満足で韓国焼き肉を満喫して、足早に帰宅すると、玄関口でかあちゃんが待ち構えていた。
 半身に構えて俺のことを凝視するかあちゃんの姿は、郁夫のかあちゃんに負けず劣らずの鬼ババだと承知していた俺は、咄嗟に

「郁夫んちでおよばれしてこんなに遅くなっちゃった、ごめん」と自分でも驚くほど白々しい言い訳が口をついてでた。
 黙って仁王立ちのかあちゃんは次の瞬間、言い逃れを見透かしたかのように
「嘘つくんじゃねー 大、お前の嘘はバレバレや、お前が出てったすぐ後に郁ちゃんが風呂に誘いに来たぞ、それになんやお前のその服の匂いは、どこぞで、何食わして貰いよった?」
 涙目で、観念した俺が一部始終を正直に打ち明けると、かあちゃんは納得がいった様子で黙って苦笑いを浮かべながら、ひとつだけ頭をコツンと叩いた。

 翌朝俺とかちゃんは学校へ登校する前の時間に、朴さんの小屋を昨日のお礼の朴さんの好物らしい芋羊羹を2つ携えて訪れた。
 身支度を整え仕事に向かう朴さんが小屋を出ようとした所に、タイミングよく到着した俺らは、昨日のお礼を言うために足早に近づいた。
「昨日の夜は家のくそ坊主がえらくご馳走になっちまったみたいで」
無理矢理俺の頭を押さえ付け一緒に頭を下げる母ちゃんにただ笑い返すだけの朴さんは、たかが2つばかりの芋羊羹に恐縮しまくり、オート三輪の中で待つ郁夫の父ちゃんのもとへと急いだ。

 朴さんの顔を見るのは実はそれが最後だった。訳あってその年の暮、貧乏長屋を後にした我々家族は、それからも何度か、生まれ故郷のその街を訪れたが、殆んど時を同じくして転居したらしい郁夫家族とその後顔を会わせることは叶わなかった。

 それ故、朴さんのその後の行方も杳として知れない。 が、 朴さんから教わったレバ刺の味は、自分で金を稼ぐようになってから、常に焼肉屋で注文する定番メニューの地位を確保し続けた。
 悲しいかな、ある事件がきっかけで、レバ刺がこの世から姿を消すまでの間

              終

 

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