見出し画像

「頑張っている」なんて思っているうちは、まだまだなのかもしれない。

note2記事目の投稿。

noteの機能について全く理解できていませんが、基本的には投稿したい文章だけを淡々と更新していく予定なので、恐らく何年経ってもこの(何も活用できていない)状態が続くことでしょう。

みなさんこんにちは、あらおです。

今回はタイトルの通り、頑張っているなんて思っているうちは、全然頑張っていないんじゃないかという話をしていきたいと思う。

早速、「努力したから頑張ったと思えるんだろう」なんて声が聞こえてきそうな事案だが、まずは私の意見から述べさせていただく。

確かに、努力すらしていない人は頑張ったと思えないだろう。

ただ、本当に努力している人というのは周りからはそう見えるだけであって、本人はその自覚がない、もしくは少ないんじゃないかと思う。

学生時代の時に行っていた部活動なんてまさにそうで、平日は学校終わり、土日も返上で休みなく練習していた。

あの頃は努力しているなんて感覚はなく、当たり前のようにやっていたし、楽しんでいるだけだった。

恐らく、北京冬季五輪スノーボード男子ハーフパイプで金メダルを獲得した平野歩夢選手だって「努力している」という感覚は少ないんじゃないかと思う。(予想に過ぎないうえ、私の部活動と並列させて申しわけないが)

もちろん、周りから見ると決して真似のできない努力があっただろう。
ただ、本人的には「楽しいからやっている」という感覚なのではないか。

感覚に過ぎないのだが、「努力」や「頑張っている」と言う言葉は、「辛いけどやっている」というニュアンスが含まれている気がする。

努力について、
・本人も周りも頑張っていると思っていない
・本人が頑張っていると思っているが、周りは思っていない
・本人も周りも頑張っていると思っている
・周りは頑張っていると思っているが、本人は思っていない
以上の4種類のパターンがあるのだろう。

周りが頑張っているかどうかを判断する基準は「目標があるかどうか」な気がする。
例えば、毎日ダラダラとゲームをしている人がいるとその人は「ただ遊んでいるだけ」と判断される可能性が高い。
しかし「e-スポーツで日本代表になる」と言う目標があれば見え方も変わってくるだろう。(e-スポーツについてはまだまだ理解されない部分もあるが)

また、本人が頑張っているかどうかを判断する基準は「苦痛かどうか」な気がする。
「楽しい状態」や、やりたくてやっているとき、人は「努力している」という感覚は持ちにくいだろう。

「頑張っている」なんて思っている時は、苦痛を強いられながらやっている状態のため、実はそこまでやりきれていない。

どの分野においても、上の方にいく人はそんな次元で生きていない。
もちろん、振り返った時「努力していた」という感覚になることはあるかと思うが。

総じて何が言いたいかと言うと「自分自身は努力している感覚はないが周りは努力していると思っている」ことこそが、正しい努力であり、好きなことであり、才能があるものであり、伸ばすべき分野なのだと思う。

私のnote更新も、全く苦ではないので、正しい努力なのだろう。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?